Forget me not blue
優しいあの人に、会いに行くの
顔も覚えていない夢の君に思いを馳せ、病室の窓から青々とした空を眺めていた。生きる希望に満ち溢れ、解放された窓から入る穏やかな風を感じながら爽やかな気持ちに浸っていた。
能天気な声がノックもせず入ってくるまでは。
「よお!ちーどり!」
最近ではもう見慣れてきた彼の姿が病室のドアを開けて入ってくる。トレードマークのキャップの鍔から覗く瞳が、窓から差し込む日光を下から受けながら弧を描いた。
「今日はこれ」
そう言いながら、一輪のチューリップを差し出してくる。
「有り難う」
少女は、素直にお礼を言う。花は好きだった。彼女にとってそれは ”夢の君” との唯一の接点なのだから。
吉野 千鳥は数週間前、記憶を部分的に失っていた状態で「目覚め」た。病院に運ばれた経緯も覚えていない。
1 0年前、住んでいた私営の児寺院が経営破綻し、世界的にも名の知れた桐条財閥の施設に移された事は覚えている。それから先は曖昧な記憶ばかりで、大事なことを思い出せない感覚はあるが、それが具体的に何なのかは都合よく忘れていた。
辛い記憶のような気がして様々と自ら推察していみるものの、しかしその身はいたって健康体で、外傷による苦痛は無かったと考えられる。
ただぼんやりと、施設のなかで投薬をされ怖い思いをした幼い自分を、夢の中で ”あの人” が助けてくれたような、そんな記憶とも呼べないものを感覚的に持っていた。
隣の丸椅子に腰を下ろした見知らぬ少年 ー 伊織順平が頻繁に千鳥の病院へ顔を見せ、せっせと花を取り替えてくれているというのに、記憶喪失の身の上で彼のこををすっかり忘れてしまっていたので、千鳥は最初彼に対してどう接してよいのか決めかねていた。
とはいえ順平に対しては、初対面特有の警戒心などは自然と芽生えることはなかった。
目を覚ました自分の事を誰よりも喜び、泣いてくれた男の子だったのだ。
さらに言えば、この少年はとても…かなり気さくな人間だ。いつの間にか順平のペースに乗って、無口だった千鳥もペラペラと口を開くようになった。
たたの親切か、それとも
「…貴方、私を口説いてるの?」
「え?!」
ギクリとしながら目を逸らす順平。慌てた様子で「そうじゃねえよ!」と否定してくれるのを千鳥は待っていた。いや恐らく彼はそういうタイプろうという確信があった。それなのに
「口説いても良いならそうするケド…」
と、照れ笑いしている。千鳥の方が目を逸らした。
「…私、好きな人がいるの」
「知ってる」
「その人の事、諦めないから」
そう、順平ではなく、夢に見たあの人を、千鳥は探している。あの人以外の人に口説かれても困るのだ。彼女は睨むように順平を横目に見た。すると、困ったような、照れているような、所在なさげな手で、彼はキャップの上から後頭部を掻いている。
「なんで貴方が照れるのよ。言いたいことがあるなら言えば?」
「えっ、いや…」
変な人。
そう口にしかけたが、やめた。花のプレゼントは有り難かったのだ。彼の持ってきてくれた鮮やかなチューリップを眺めると、千鳥の心は理由無く踊った。
「君は一途で可愛いなって」
花に心奪われていた少女の心臓は飛び上がる。行きなり何を言い出すのか。「言いたいことがあるなら言えば?」その返答なのだろうか。千鳥は動揺を悟らせないように努めようとしたが、どうだろう。彼に気付かれただろうか?
「そんなこと言っても無駄」
「そっか」
屈託なく笑う順平の言葉は、本心なのか冗談なのか、千鳥には分からない。
順平はチューリップを包んでいた包み紙に、窓辺のラックの花瓶に挿された枯れかけの蘭の花を移した。千鳥があっ、と声をあげる
「その花棄てないで」
ゴミ箱に投下されようとしているそれに手を伸ばす。首をかしげながらも順平は千鳥の膝元にそれを置いた。彼女はその蘭を、ベッドサイドのテーブルの本に挟む。
「なんだ?その分厚い本は」
順平が、詰まれた本の背表紙をつつくように指差した。
「辞書よ」
「辞書?」
「それに百科事典、週刊誌、図鑑」
分厚い本が無造作に積まれたサイドテーブルに、彼女は淡々と答える。
「ずいぶん勉強熱心だな」
「違うわ。押し花作ってるの」
言ってから、少し後悔した。順平から貰った花を後生大事に押し花にしているなんて、本人に知られるのはなんだか癪である。
「スッゲーな、チドリ。そんなん出来んのか」
「別に、凄くない」
「本当に花が好きなんだな」
「私は…」
実を言えば、千鳥は特別花が好きでも嫌いでもない。夢のあの人のために飾っているだけだった。夢の中で、その人が沢山の花を抱えて笑っていたのを覚えていた。
「なあ、最近描いてないんだな」
「なにを?」
「絵。描くの、好きだろ?」
「どうして知ってるの。友達だから?」
「まあ、そうだ」
「…ごめんなさい、皆の事覚えて無くて」
順平だけではない、この病室には他にも「友達」と名乗る人たちが沢山来る。だが千鳥からすれば、彼らを一人も覚えていなかった。
1人はどこかのご令嬢。上品で凛々しい人で、千鳥の体調を良く気遣ってくれる。何故かその令嬢へ言うと、医師や看護婦が希望したものを何でも持ってきてくれた。
1人は、小洒落た気さくな少女。「順平の事で困ったら連絡して」とメッセンジャーIDを交換したが、順平についての愚痴より取り留めのない会話ばかり彼女としている。それはとても楽しかった。
ガタイの良い青年、小柄な少女、大人びた小学生。そうそう、礼儀正しい金髪の少女が犬を連れてきてくれたりする。
けれども、どうしても会いたい ”あの人” は彼女に会いに来なかった。千鳥が ”あの人” について誰に聞いても、皆苦笑いするばかりで 「さぁ」と顔を見合わせるだけなのだ。
“あの人” は自分の夢の産物なのだろうか。ただの幻想なのだろうか。それでも千鳥は、”あの人” を想うことを止められずにいた。
「私が一番会いたい人は会いに来てくれない」
「チドリ…」
「…あの人の顔を思い出して描こうと思うのに、出来なくて。だから最近スケッチブックも進まないの。あ、花は覚えてる。あの人のために摘んだのは、オレンジのガーベラ、スミレ、菜の花…」
千鳥が「それから…」と思い出していると順平が
「コスモス、パンジー…」
と呟いた。そうそう、あと…
「鈴蘭、アネモネ」
「「勿忘草」」
青く美しい花だ。でも
「なんで知ってるの」
「…当てずっぽう」
順平がへらっと笑った。
「なんだ。花の名前なんか知らなそうな顔して、詳しいのね」
「惚れたちゃった?」
彼が笑う。そうすると周りが明るくなる気がする。 それは彼の魅力なのだろう。でも
「夢の中のあの人は、優しくて、強くて、私を守ってくれて…貴方みたいなチャラい男じゃなかった」
…はず。という言葉を飲み込んだ。
「一緒に探してやんよ。もし見つからなかったら、俺にしなって。チドリン」
この調子の良い男は千鳥の刺を込めた言葉や視線をものともせずへらへら笑っている。「チドリンて呼ばないで」と何度も言っている台詞を会話に挟むのは面倒だが、一応彼女は忘れずに言う。
「思い出したいの…夢の中で、私は本当に彼が好きだったの。邪魔しないでよ。」
「邪魔する気なんかねえよ。でも、辛い記憶かもしれないぜ。無理して思い出すなって」
「悪夢じゃないって言ってるでしょ。私の夢を決めつけないでよ!」
言ってから、声を荒げた事を後悔した。
わかってる。この人は自分を心配してくれているのだと。お調子者だけど、彼も優しい人なのだろう。この人と一緒にいたら、きっと好きになってしまう。そんな予感がして、千鳥は首をふった。
「一緒に探してくれるの?」
「君が望めば、なんでも手伝うぜ」
「有り難いけど、手懸かりが少なすぎるわ。夢の人だもの」
「そりゃあ、お手上げ侍だなー」
言いながら両手を挙げてウンザリといった顔を作る順平。下らない冗談。なのに笑ってしまった。なんだか悔しい。彼が来ると、イライラすることが多いけど、反対に楽しいことも多いのだ。
・・・
それから一ヶ月も経たないうちに、千鳥の退院日がやって来た。回復が早いと担当医は驚いていたが、そんなに自分の体は瀕死だったのだろうかと、千鳥は己が胸を撫でる。
退院日、身内のいない彼女だったが順平が花束を持って迎えにきてくれた。花束は寮生たちからだった。しばらく学生寮に住まうことが決まった。
正直「あの人を探す」という目標以外、千鳥には宛がない。彼女には身内もなく、それを考えると不安で仕方なかったけど、その心には強い道標があったから、不思議なほど気持ちが落ち着いていた。
そして何故かは知らないが、千鳥は驚くほど手厚い対応を受けていた。失った記憶に関係しているのかもしれないが、今の彼女にはわからないことだったし、一旦は甘えることに決めた。恐らくあのご令嬢の根回しだろう。
学生寮は最低限の設備はちゃんと揃っていた。殺風景だが整えられた千鳥の部屋の壁には、制服が掛けられていた。学生として通学した記憶がなかったので、少しだけ不安に思う。
部屋の窓からは、寮へ来るときに順平と歩いた並木道が見えた。日当たりは良さそうだ。
日光の当たる部屋で、千鳥は立ったまま我が身を振り返った。
この街のことはあまり覚えていない。10年前、自身はもっと田舎にある孤児院から、巌戸台にある施設に移された。それなのに、外を歩いた思い出はぼんやりしている。記憶喪失とは厄介だ。
千鳥は順平たちと年も同じらしかったが、義務教育がだいぶ遅れていたため高等学校の1年に編入が許された。入院中は彼女の進学度を計るため、本格的なテストを三回も受けさせられたてうんざりした。
学校でも相変わらず順平が千鳥の世話を焼きたがったが、彼女は「学校の間は無闇に会いに来るな」と釘を指した。
気を悪くさせたかと一瞬思ったが、彼はそんな様子も見せず
「何かあったら俺の教室来いよ!」
と、一年の教室からあっさり出ていった。世話焼きのくせに、こちらが拒めば案外あっさりその場を去っていく。
逆に言えば、千鳥が望めば彼はいくらでも傍に居てくれるのだ。
「別に望んでないわ」
彼女はそう呟いて、鞄から教材を取り出し机の引き出しに閉まった。
・・・
ポロニアンモールからはずれたブティック通りを、順平と当てどなく歩く。まるでデートのようだなと考えて、千鳥ははたと首を振る。
(ただの道案内よ)
放課後、町を案内すると言い出した順平に連れてこられたのだ。
通りには、彼がいつも好んでつけているようなストリートファッション系の個性的な商品を並べる店もある。きっと時々来るのだろう。
さらにこの通りには、他にもサブカルチャーな雰囲気を漂わせた軒並みが続いてた。
「あ…」
あるショーウィンドウの前で立ち止まる。隣を歩いていた順平が立ち止まった千鳥に続いて足を止めた。
「チドリが好きそうなドレス」
「え?」
「ヒラヒラで、フワフワで。なんだっけ…」
二人の視線の先には、白いロリータのワンピースを纏ったマネキンが立っていた。
「ゴスロリ?」
順平がドレスから視線をそらさず聞く。ゴスロリではないが、目の前の服はロリータと言われるジャンルのドレスだ。千鳥は急に、自分の好みを知られているとわかり恥ずかしくなる。
「もういいよ。いこ」
「なんだよ、店、覗いて行こうぜ」
「いいって」
順平を置いてウィンドウの前から足早に離れる。彼は後ろから簡単に追い付いてきた。
「私の事、どれくらい知ってるの?」
「チドリはほら…昔の話なんてつまらないだろ?」
「そう…」
確かに良い思い出ではない。
「でも、ああいうの着てたから、好きなのかなって」
「着てた?私が?」
「いつも」
「ふぅん」
順平が、口を閉ざした。二人で居るときに会話が止まるのは、大概向こうが口を閉じたときだ。
「買ってやるよ」
と、唐突に順平が申し出る。
「は? いいって。値段みた?高いのよ。ああいうのは」
「黒沢さんの武器に比べたら別に…」
「武器?」
「あ、いや…」
順平が時々口を滑らせて自分で困っていることがあるが、私にはそれがなんなのかサッパリだった。何を隠してるんだろう。
「いいってば。私は別に、順平が…」
千鳥はその続きを良いかけて、ぐっと息を呑む。
「花」
「え?」
「買って。一輪」
「そんだけ?」
「う、うん。寮の部屋、味気ないから、真っ白なのは嫌。綺麗な色の花が良い。真っ赤な花」
「薔薇とか?」
「それ。買ってよ。順平、私の事好きなんでしょ?」
「そうだけど…」
少しも否定しない順平に、千鳥の方が戸惑う。
「花屋なら大通りにあるんだ。行こうぜ!」
「え…」
順平がさっさと先を歩いていくのを千鳥が慌てて追いかける。2ブロック進むとすぐにポロニアンモールに出た。順平は迷いなく先を歩くと、すぐに花屋の軒先へたどり着いた。
「赤い薔薇、ありますか」
「一輪?」
と、エプロンをつけた中年の女性が聞いてくるのに順平は頷く。その後頭部を、少し離れたところから千鳥は眺めていた。
「また彼女にプレゼント?ついに愛の告白?」
店先から順平と店員の会話が聞こえてきてドキリとする。
「なんで?」
「薔薇は愛の花言葉をたくさん持ってるからね」
「”あなたを愛してます”ーとか?」
「諸説あるけど、だいたいそうね。薔薇一本なら、一目惚れ。とかね」
「へぇ」
店員と順平の会話を聞こえないふりをしながら千鳥は軒先で花を物色する。そして、順平が店から出てくると、さっさと買ったばかりの花を差し出した。
「部屋に飾るなら、他にも買っちゃう?」
「いらない」
順平から花を受け取り、寮へ向かって歩きだす。
「チドリ」
「なによ」
「寮、こっちだぞ」
振り返ると、順平が後ろで別の道を曲がろうとするのが見えた。
千鳥は自分が少し…そう、少しだけ、浮かれていたことを自覚して、その顔を赤くした。
・・・
寮の物置からシンプルな細い花瓶を拝借し、そこに水を注した。薔薇を挿すと、この花ためにあしらわれた花瓶かのように、しっくりと2つは馴染んだ。
「なんだっけ、一目惚れ?」
「花言葉?」
「花屋のおばちゃんに教えてもらった」
「順平は、私に一目惚れしたの?」
「え?」
彼は瞬間空に目をやったあと、ニヤニヤしながら頷いた。
「嘘はやめて」
「いやぁ。一目惚れの前に、変わった子だなぁって印象だったから」
「ゴスロリ着てたから?」
「ゴスロリ着て、大きなスケッチブックで、難しい絵を描いてた。ゲージュツはバクハツだー!って」
「そりゃ変わってるわね」
「バクハツのくだりは冗談だから」
順平は笑った。彼との出会いを忘れていることを、少し寂しく思った。
・・・
寮の暮らしにも慣れてきた頃、千鳥は自分の夢をたよりに”あの人”の絵を描き始めた。
朧気でもなんでも、手懸かりは自分の中にしか無い。
最初は筆が進まなかったが、彼が夢の中で花を受けとる指や、微笑む口許を、想像でもいいからと、がむしゃらに紙に描き起越しているうちに、なんとか形になってくる。
けれど
「…!」
夢中になって描画している途中我にかえってスケッチブックから顔をはなす。
「なにこれ」
ぼんやりと、それはよく見知った少年に見えた。 キャップを描き加えてやれば、きっとその姿は伊織順平のそれになるだろう。
「いつも付きまとってくるから…」
順平と過ごすことが多い生活で、無意識に彼の姿が絵に入り込んでしまっているのだろうか。スケッチブックには、順平の絵が増えていくだけである。
「邪魔しないでって言ってるのに」
勿論、順平が直接邪魔をしているのではない。だが、このままでは夢の中の”あの人”の姿が順平で描き消されてしまうような気がした。
・・・
「チドリになにした」
「なにもしてねえよ!」
ゆかりから睨まれて、順平は肩を竦めた。
ここ数日、千鳥が部屋に篭って根をつめた様子で絵に熱中しいるのを、ゆかりも順平も知っていた。
原因はわからない。順平自身もなんの覚えもないが、自分のデリカシーの無さは理解しているつもりだったので、だんだん自信がなくなり「たぶん…」と後付けする。
「理由は訊いたの?」
「訊けっかよ」
今日は二人で千鳥を誘って映画を観に行こうと計画していた。けれど不機嫌な千鳥にドア越しに
「順平もいくの?」
と確認して、彼が同行すると知るなり、つれなく断ったのだ。落ち込む友人を連れて呑気に映画に行く気にもなれなくなったゆかりは、予定を変えて喫茶店シャガールへ順平を伴って入った。
「私が聞いてあげようか?」
何だかんだ順平にはいつも厳しいことを言う彼女だが、いざというときは優しい。その声は友人を気遣っているのが順平にもよくわかった。
「相談乗るんだから、お茶奢ってよね。ロイヤルミルクティ」
と言い添えるゆかり。彼女なりの気遣いだ。ここの紅茶は少し高いが、この際紅茶の一つぐらい構わないと順平は思った。
「チドリに構いすぎてウザがられたかな」
「それはありえる」
ぐさりと刺さるご意見。だが怯んでいられない。
「ちょっと距離おいたら?」
「…そーすっかなぁ…」
「え!まじ…?」
自分のアドバイスが採用されたことに驚いたゆかりは苦笑いしている。
「もうチドリは一人じゃない。学校や寮で友達もできたみたいだし。俺が元気付けなくても心配ないだろ」
寂しい気持ちにもなったが、それは双方にとって喜ばしいことなのだ。順平は自分が落ち込んでいるのかほっとしているのか分からず、頬杖をつく。運ばれた飲み物に目を落とすと、間抜けな自分の顔が水面に映った。
「…守るんじゃなかったの?」
ゆかりに視線を戻すと、切なそうにこちらを見ていた。それが、いつかのチドリの顔と重なる。
「守るよ」
と、少年の口から自然に流れる言葉に、ゆかりの大きな瞳がさらに間開く。無意識な順平は彼女がなにを驚いているかわからない。
「あんた変わったわ」
「どこら辺?」
「調子乗るから、教えてやんない」
「ケーキも奢るぜ?」
「ダイエット中だから結構よ」
伏せ目を喫茶店のオープンテラスへ向けるゆかり。こんなとき、彼女が美しいことを順平は再確認する。大抵の男子はこの美少女に憧れを抱くだろうが、彼は端から彼女の恋愛対象外だったこともあり、友達以上になることは普段考えることはない。
(ならチドリは?)
彼女はいつから自分の大切な人になったのだろうか。
正確には一目惚れではない。当時、千鳥は危うい気配を纏って順平の目の前に現れた。その時の彼自身と言えば、藪から棒というか、自暴自棄というか、普段なら近寄らない雰囲気の女の子に、半ば乱暴な好奇心で話しかけたのだ。いや、話しかけたのは彼女が先だったのだが、少女の視線の先に立ってジロジロ見つめていたのは自分だった。
奇抜なオーラを纏っていたが、千鳥もゆかりとはまた違った部類の美少女だ。
けれど、笑顔を隠した彼女はその見た目の愛くるしさを全く感じさせなかった。順平にとって最初はあまり親しくなれるような気配など微塵も感じさせない女の子だった。幾度目かの会瀬で千鳥が初めて微笑んだとき、それは自分を騙す微笑みではあったが、それでも順平の心が渇望していた言葉をその微笑みと一緒に向けてくれた千鳥は、異性というよりも拠り所としての魅力を、思春期にありがちな自己実現に悩む少年に感じさせたのだ。
だから、騙されて拉致されたときはひどくショックだった。認めたくなくて彼女の良心にすがった事もあったが、今にして思えば、すがるような瞳をしていたのは千鳥の方だったのだと、順平は気付いた。
・・・
人の脳ミソは厄介なもので、忘れようとすればするほどその事について考えてしまうものだ。順平のことを忘れて夢の”あの人”を思い出そうとすると、どうしても順平の笑顔がちらついてくる。
ここ数日、順平はあまり構ってこなかった。集中して描けるはずだったのに、より一層順平は彼女を邪魔してくるようだった。
「何度も何度も…ッ」
千鳥は鉛筆をスケッチブックに叩き付けて、大きく息をつく。
「…何度も……」
前にもこんなことがあったような気がする。自分は心穏やかに何かを待っていた。避けられない巨大な黒い影だった。それを、怖いものだと気付いた千鳥は怯えていた。
(そう、彼が邪魔したから)
「…なにを?」
チラチラと脳裏に浮かぶ色。胸が締め付けられるような感情。そう、感情だけ。具体的な思い出は無いのに、匂いさえ思い出せそうな…。
千鳥は意識を集中して、目を開くと消えてしまうかに思える細い糸のような記憶を必死で掴もうとした。けれど、暫く唸っているうちに微かな感覚は消えてしまう。
「もうちょっとだったのに」
夢で見た時と同じ、何か大事なものを思い出せる気がした。涙が頬を伝って枕を濡らしている。
「順平なら知ってるんでしょ?」
順平どころか、皆私の記憶喪失について言及も助言もしようとしない。だが「忘れた方が良い」とでも言いたげに口を噤んでいるくせに皆どこか寂しそうなのだ。
どうして今まで、皆に直接聞かなかったのだろう。順平などは、記憶喪失の私よりよっぽど記憶しているに違いない。きっと知っていたのだ、それなのに、私にそれを隠していた。
腹立たしさが湧き上がり、部屋を出た。まっすぐ順平の部屋まで来て、ドアをノックしかける。
「…」
順平は人の恋路を邪魔するなんて無粋なことはしないはずだ。ふざけているようで、でも彼が優しいことを、周りの皆が知っている。
それに、もう夜も更けていた。迷惑だろう。
「あれ…?」
ドアが、少しだけ空いていた。改めてドアをノックする。部屋の主の名を呼び掛けたが返事がない。恐る恐るドアノブを捻り、中へ入った。
「無用心ね…」
部屋の外から中を覗いたが、やはり本人の姿は無かった。出掛けているのだろう。
順平の部屋は無造作に物が置かれて…つまり、散らかっていた。漫画本やファッション雑誌、空き缶、CDケース、どれも彼らしい。それなのに、部屋の奥のデスクの上にらしくないものを見つけて、それはこの部屋で異色のものに見えた。
「スケッチブック?」
何か、
予感がした。
見覚えの無いそれに鼓動が早まる。恐る恐る部屋へ踏み入ると、彼の匂いがして、確かにここは順平の部屋なのだとわかる。その部屋のスケッチブックは、一つたけ異彩を放っているように見えた。この部屋に似つかわしくないというか、特別なオーラを纏っているように感じた。そのスケッチブックに触れると、手が慣れているようにページを開くのを不思議な気持ちで見ていた。
一枚、二枚、…。千鳥は息をするのも忘れて頁を最後まで捲りきってしまう。
「だれ…?」
後ろの声に驚いて漸く体が空気を吸った。振り返ると、順平は小さく「あっ」と洩らしてから、しかしすぐに何もないような顔を取り繕っていた。
「それ、友達のでさ、授業でお互いの顔を描いたんだ。上手いだろ。だから貰ったんだ」
事実、このスケッチブックには彼の顔が描かれていた。けれど
「授業で?こんなに、何枚も?」
ぺらぺらとスケッチブックのページを捲ってそれを彼にも見えるように広げる。
横を向いている順平、正面で笑っている順平、後姿で肩をすくめる順平、彼のキャップ、学生バッグ、腕時計やアクセサリーまで、彼のあらゆるものが描かれていた。
しかもこの筆遣いは…。
「自分で描いたものぐらいわかるわ…!」
スケッチブックを握りしめて、彼を睨み付ける。
「ち、チドリ。怖い顔すんなって…」
「…」
「…記憶喪失になる前、チドリが描いてくれたんだよ。学校の、宿題で…」
「本当に?」
「…」
「ゆかりに確認して良い?今すぐ」
千鳥はスカートのポケットから携帯を取り出した。
「それは…!」
順平が携帯に手を伸ばすが、彼は千鳥の元へ寄って携帯を奪おうとする素振りはなかった。もっと言えば、順平は千鳥には触れようとはしないのだ。
そう言えば、と千鳥は思う。自分は順平と指一本も触れたことはない。それなのに、その手がどのくらい暖かいのか、力強いのか、彼女はそれを思い描くことができる。
ありありと。
急に、また懐かしい感覚が体の中から鼻を通って抜けてきた。
自分の体は、暖かい順平とは反対に冷たくなっていく。
ゆっくりゆっくり。
冷たくなっていく。
いつの記憶だろう。
生きている順平とは逆に。死んでいくような…
確か、そう、自分はそれを受け入れていた。体は体温を保てなくなって、体もやつれていた。
死んでいく施設の子供たちの屍に立って、自分の内から沸き起こる影が蝕む肉体にただ耐えている光景が、脳裏に浮かぶ。
「う…っ」
急に血の匂いを感じる。気のせいだと分かっているのに気持ち悪くなって体がふらつく。気付けば、まるで体が体温を戻そうとしているのか、胸が熱かった。
「チドリ!!」
順平が駆け寄ってきて彼女を抱きとめる。その瞬間、千鳥の瞳へ映像が迸り、思わず意識を手放しかけた。
「どうした?具合でも悪いのか?」
順平が片腕で千鳥を支えながら、もう片方の手で自分の携帯を取り出した。狼狽えているのか、手が震えている。
「医者…っ、つれてってやるからな」
千鳥と言えば、朦朧としながらも、順平のこえだけはハッキリ聴こえていた。
「君を守る…絶対に…っ」
「…守…る…?」
(順平が私を?
守るのは、私
私が順平を守るの…ずっと…)
順平の腕から、千鳥の胸の奥へ強くて熱い何かを突き上げて、それらが四肢の末端まで広がっていくのを感じる。この感覚を知っている。
いつか自分が彼に与えたものだった。
「私を守ったりしないで…」
思い出してしまった。
自分がもう先の長くない命のなかで、未来や、光や、順平…それら美しいものをすべて拒絶していたこと。無気力に、悲観的に世界を見ていたこと。それを強い鎧と信じて纏っていたことを思い出した。
嫌な女の子だった。
順平をいつも子供みたいにチクチクと玩具のナイフで傷つけていた。
その度にもう一人の千鳥が「そんなことしたくないくせに」と笑い、お手本を見せつけるように順平ににっこり笑いかけ、彼の手を取り、「大好きよ」と囁く。そうすると、順平は照れたようにはにかんで喜ぶのだ。
自分の分身に瞼の裏で見せつけられ、悔しくて、悲しくて、羨ましくて、胸が締め付けられた。
それらの空想は、順平を目の前にすると消えてしまって、代わりに出るのは世界を羨む子供。
けれど、千鳥は最期、命を差し出したとき。やっと自分の望むことが出来たと実感した。
それまで、自由に生きていたつもりでいたのに、気付けば自分で自分を縛っていた。
最期の自分は、言いたいことを言って、したいことをしていた。順平に「大好き」と伝え、彼に抱き締められ、幸せを感じながら、与えられるかぎりの愛情、命をすべて差し出した。
胸が苦しい。自分の魂がこの感情に耐えられないようだ。
千鳥は順平の腕を思いきり払い、部屋の出口へ駆け出した。
振り返った一瞬、順平の苦しげに見開かれた瞳が、頭から離れなかった。
・・・
「ッ!!」
(なんで突っ立ってるんだ俺は!!
守るって決めたじゃないか!)
一瞬でも竦んでしまった自分の足。それに鞭打って、走り出す。
玄関の方からドアが閉まる音がした。千鳥が外へ出たのだ。こんな時間にどこ行く気だろう。彼女を追って玄関を飛び出すと、もう千鳥の姿は見えなくなっていた。
自身も外へ出て、千鳥の名を呼ぶ。その声を、千鳥は近くの路地裏で聞いていた。
探してもらえることが嬉しくて、切なくて、いや、いっそ自分の事なんか忘れて帰って欲しいとも彼女は思っている。見つけて欲しいとも。
順平から逃げるようにポロニアンモールを走ったが、すぐに息を切らして立ち止まってしまった。鎖斧を振り回していた頃と比べると大分体力は落ちていた。
「花壇…」
花壇のベンチに腰を下ろす。ここは順平と初めて出会った場所だった。
最初は怖かった。柄の悪そうな髭面の男の子。あの時の千鳥には怖いものなんかなかったはずだけれど、今ならそう思うだろう。そんな風貌の彼は、思い詰めていたのだろうか、視線は鋭く下を見つめて歩いていた。余計に近寄りがたかった。
なのにどうして、あのとき目があってしまったのだろう。
二人を何が繋いだのだろう。
千鳥はわかっていた。あの時の順平も千鳥も同じだった。
命への執着を捨てようともがいていた千鳥と、命をかけるものを求めていた順平。
二人はそれを愛しいと知りながら粗末に扱っていた。
・・・
この寮へ来る前、真田に声をかけられなければシャドウに食われるのを泣きながら待っているだけだった順平だが、彼自身どこかでそんな自分を他人事みたいに見ていた。
(俺、死ぬのかな)
家庭は荒れていたし、自分の存在意義もわからない。
いっそ消えてしまってもいいかもしれない。この影たちは、自分を優しく消してくれるかもしれない。
それなのに、生きたいという極々普通の生存本能は暴れていて、それで涙が止まらなかった。
召喚器を渡されて、あっさり順平がトリガーを引いたとき、真田は笑って「度胸はあるんだな」と言っていた。だが本心は違うということを、桐条は察して怪訝な顔を順平に向けた。
「怖くないのか」
「え?…」
「……なんでもない。君を歓迎する」
一言だけ言って、いつものクールな表情に戻っていた。
「…そんなわけないっしょ。死ぬなんてごめんだ」
それを呟いたのは、自分自身にだったかもしれない。半分は死にたかったのだ。
でも今は
「チドリ!」
日が落ちて鮮やかさも身を潜めた花壇の広場。そのベンチにチドリはぽつんと座っていた。辺りに人気がないなか、つい大声で呼んでしまったのがいけなかったのか、びくりと驚いて顔をあげたチドリの瞳は潤んでいた。
「順…」
「あぶねぇだろ!こんな夜更けに」
「…」
順平は我に返る。なんでもっと優しく言ってやらないんだ、いつもみたいに。息を整えて、チドリにそっと手を伸ばした。
「帰ろう」
チドリがいつも気丈な瞳を頼りなさ気に目を伏せた。
「順平は酷いよ」
「ごめん」
「理由もわからず謝るの?」
「チドリを悲しませてるんだろ?」
「…」
順平はなにも悪くない。悪いのは自分の方だと、本当はあっさりは認めていた。彼を想って苦しいのも自分の所為なら、彼につれなくして罪悪感に苛まれるのも自分の所為。
自分が間違ってた。本当は…
「順平が全部持ってた。私の記憶。私の命」
「それって…」
順平は千鳥の前にしゃがみこみ、彼女の顔を覗き込んむ。少女の言わんとしている事がわかり、順平は息を呑んだ。
「そうだよ。君がくれちまったんじゃないか…」
千鳥が顔を上げると、鏡のように強く光る順平の瞳に自分の姿が揺れて映っているのを見た。
「俺に全部…っ」
「順平…!」
電灯の明かりが頼りなくちらつく中、二人は抱き合った。触れるとお互いの想いが熱として伝わり会っている気さえした。
「どうして君はいつも俺を置いていこうとするんだよ」
「私をいつも置いてったのは順平でしょ。私は一緒にいたかったの。ずっと」
確かに二人はいつも一緒だった。体は離れていても命だけはお互いのそれだった。さらにいえば、当時の千鳥にとって肉体は数年の猶予しかない借り物のような存在だったのだ。
それでも順平には、生きて分かち合いたいものが沢山あった。彼女の笑顔をもっと見ていたかった。
ところが順平が当たり前に望んだそんな平凡は、彼女にとって手の届かないものだった。順平の声も、視線も、好意も、本心では望みながら全部諦めていた千鳥。けれど夢だけは、何の制約もなく、千鳥の望むものを見せてくれたのだ。
「ずっと探してたよ」
順平の肩口から千鳥は空を見上げる。
月が、綺麗だ。
黄金の月が周囲の雲を金に染め、雲の波間の星が、波紋のようにまたたいた。
世界はこんなにも綺麗だった。今までこれらのものに目を向けず、気付かず、捨ててきたけれど、これからは全部愛していく。
千鳥はそう決意した。