二ノ姫と村人の契り

ドニリズ
小説
捏造設定あり
連載

 自分の視線が届くやっとの距離に、剣を手にした夫が背を向けて立っていた。頭にかぶっていた鍋は愛嬌があったが、その屈強な後姿は勇者そのもの。リズは手を伸ばして、ドニに走り寄るが、走っても走っても距離が縮まることはなかった。剣の交わる音が耳をつんざき、土煙と血で目が覆われても、戦士たちの怒号の中にドニの声と姿を見失うものかと足掻いて手を伸ばす。

「待って!」

「うわ!」

 自分の叫び声と夫の驚いた声で目が覚める。そしてちょうどベッドの端に横たわっていた体はゆっくりと床に落ちていった。

「痛た…」

 その痛みをじんわりと自覚して、夢から覚めたことを知った。

「大丈夫か、リズさん」

 ベッドの上からドニが顔を覗かせる。見慣れない天井。いや、見慣れていたはずだ。ここはリズの部屋なのだから。だが、この部屋に入った記憶がなかった。

「私の部屋」

「おらが連れてきたんだべ。勝手に入って悪かっただ」

 ドニがベッドから降りてリズを抱き上げる。リズは眠る前の記憶を手繰り寄せた。確か…そうだ、昨日、邪竜に戦いを挑み、その戦の最中、自分は敵の術にかかった。それを思い出して攻撃を受けた腕を見ると、包帯が巻かれていた。治療を受けたらしく痛みは軽度だったので、包帯を外そてみると、火傷を負った痕が目に入ったがほとんど直っていた。聞けば、彼女が気を失っている間戦いは勝利で幕を閉じ、リズの体は手厚い手当てを受けドニの腕で部屋に運ばれたという。
 ドニはリズを抱きしめて胸に閉じ込めた。

「なしてあんな前に出てきたんだ。危ないべ」

「ごめん」

「おら、リズさんが眠っている間おっかなくって」

 戦場では鬼のような強さを誇る男が、一晩妻の寝顔を見ながら心配で震えていたなどと、誰が信じてくれるのだろうか。いや、彼を良く知る仲間たちなら笑って信じただろう。
 リズはそれを嬉しく思う反面申し訳なく思った。それでも、いつも心配をかけられているのは自分なのだから、少しはこっちの気持ちもわかって貰えたかもしれないと期待した。

「だって、ドニが危なかったから…」

 そうだ。あの時、彼の背に向かって術が放たれようとしていた。半分は反射的に彼をかばう形で術を受けてしまったのだ。ドニはそれ以上彼女を叱らなかった。

 リズが気を失った後、ルフレが竜に止めを刺し、戦いは終わった。ルフレの行方について誰も知らないことを伝えると、リズは泣いていた。

「ルフレはね、勉強教えてくれたし、恋の相談に乗ってくれたの」

 泣きながらルフレとの思い出話をするリズの髪を慰めるようにドニは何度も撫でる。「きっとまた会える」と言い合いながら、戦いで疲れきった体を横たえ、仲間をしばし失う寂しさを、お互いが慰めあった。
 帰還してすぐ倒れこむように眠ってしまったドニとリズ。二人はお互いの汚れた姿を見合って笑った。

「風呂に入りたいべな」

 そう漏らすドニに、リズが部屋の隅のドアを指差す。ドニはベッドから降りて示唆されたドアを開けた。自分の村にあるような檜風呂とは違う、大理石の浴槽が姿を見せる。

「さすが王族だべ…」

 やっぱり、自分はとんでもない女性と結婚してしまったのではないか?とはいえ、税率の低いイーリスの第2王女の部屋の浴室はそんなに広くない。広さで言えば、ドニの村の大衆風呂のほうがはるかに広かった。浴槽に足を踏み入れると、部屋の方からリズが

「先に入っていいよ」

 と声をかけてきたので、言葉に甘えてドニは服を脱ぎ、体を清めた。汚れた服は脱衣所に戻ることにはバスローブに取り替えられていた。

「洗濯に出しちゃうから、それまでそれで我慢してね」

 リズはそう言って、ドニが出たバスルームに消えていく。しばらくするとリズはバスローブではなく、ゆったり下に流れるラインの部屋着のドレスで出てきた。いつも飛び跳ねている彼女の金髪は、水でしっとりと濡れて流れている。

「新鮮だベ」

「髪?」

「リズさんの髪は綺麗だな」

 率直に述べられた感想に、リズは目を伏せて自らの髪を撫でる。上品で遠回しな貴族的な褒め言葉より、リズは彼の飾り気のない言葉が好きだった。でもそんな唐突でストレートな言葉に、彼女はいつも照れ隠しに忙しない。

「…ドニの髪、まだ濡れてるよ」

 リズが自分のバスタオルをドニの頭に被せる。そして優しく彼の髪の水気を拭き取っていった。

「も、もう乾いたべ」

「そう?」

「リズさんの方が濡れてる」

「…ドニが乾かして」

 リズがベッドに座ってドニに背を向けた。そっと振り返る瞳は少しだけ揺れているようだった。朝の日差しが差し込むこんな明るい部屋で、彼女は自分を誘おうというのだろうか。ドニは言われるまま、彼女の髪を引っ張らないように注意しつつタオルを当てた。明るい金色に輝くリズの髪は、乾くにつれ、いつものように跳ねていく。羽のようにふわりと跳ねている髪にドニは顔を寄せた。

「…」

 嫌がられたら離れようと思っていたのに、彼女がじっとしているからそれもできず、ドニはリズの髪に鼻を埋める。石鹸の匂いが香ってきて、思わずどきりとした。すん、と匂いを嗅いでもリズはじっとしていた。リズは自分が少しでも身じろげば、優しいこの男は離れてしまうだろうと思っていた。それが功を奏したのか、ドニはリズの金髪に指を絡めて好き勝手に梳いては顔を埋めてその感触をささやかに楽しんだ。鼻先で髪を描き分け、彼女の赤くなった耳や項を探し当てると、妙に感動してほくそ笑んだ。

「リズさん、色っぺえ…」

 リズの肩が少しだけ震え、熱い溜息を吐いた。耳元で囁かれるドニの声が言葉通り色を含んでいて、リズの女性性がそれを敏感に感じ取る。
 思えば、こんな風にお互いの髪の毛一本一本愛でるような時間は初めてだ。昨日までは、髪など焼かれても命があれば良いような状況だった。リズの体はそれでも傷も少なく髪も焼かれることはなかったけれど、ドニの体は傷だらけで、髪は所々焼かれ、刃で削がれている。
 リズは振りかえってドニの頬を撫でた。ずっと彼を見ていた彼女は、どの傷がいつの戦いでついたものかよく知っている。それらの傷がつくたびに胸が強く締め付けられていたことを思い出し、目の前の生きている夫の体温が急に恋しくなってドニの腰に手をまわした。抱きしめた男の体は熱く、彼の力強い鼓動がリズの胸を打ってくる。力の限りドニを抱きしめたが、彼は苦しむ素振りも見せなかった。

「あの時の約束、覚えてる?」

「約束?」

「覚えてないの?」

「えっと…」

 あの時がいつなのかわからないので、彼女との出会いから遡らなければならないのか、最近の記憶を漁らなければならないのか迷う。でも「何だっけ?」などと口にすれば妻の機嫌を損ねることをドニはよく心得ていた。

 そしてドニはとある夜、その時のまだあどけない妻がしてくれた幼いキスの事を思い出した。
 子供らしい、愛らしくて危なっかしい約束だ。今年、数えるとドニは18に、リズは19になっていて、お互い「それ」について何かを教え合うような年齢でも無いはずだが、彼女が約束を持ち出すということはつまり、そういうことだろう。

 ドニは自分に抱き着くリズの体をベッドに押し倒した。彼女の大きな瞳をじっとのぞき込むとリズは意図を理解してくれたようだ。

 不安気な瞳で見上げてくる妻を、とりあえず優しすぎるほど優しく抱きしめた。村で男子たちが一番釘を刺されたことは「女の体は絶対に傷つけてはならない」という事だった。女は強いが、その内側は桃の実ように傷付きやすく繊細なのだという事を口すっぱく言われてきた。
 リズの方はドニにしがみついて息を乱している。そんな彼女を見ているドニも吐息が熱くなった。まだ何も始まってはいないけれど、お互いが緊張で呼吸が乱れていた。リズが切な気に夫の名前を何度も呼ぶので、ドニの腕に思わず力が込められる。

「ねえドニ、私だって子供じゃないの。知ってるんだから」

「何をだ?」

「砦の本棚にあった官能小説だって、読んだことあるよ」

「ありゃ、いけないお姫様だべな」
 彼女に促されてバスローブを脱ぎ、リズの下着に手をかける。そして肌に指を滑らせるようにしてそれを取り払った。それから布団の上で二人はただ抱き合った。互いの心音を聴いて、互いのあらゆるところを撫でて証を付けた。意味もなく、名前を呼び合っては、それに喜び合っていた。

「ドニ、ドニ…」

「リズさん」

「リズって呼んでよ、ドニ…」

「リズ…」

「うん」

「リズ、リズ、好きだ」

 ドニがリズの名を呼ぶ度にリズの体が解されていき、彼女はドニをすんなり受け入れた。高ぶった感情を惜しげもなくさらし出し、二人は約束を果たしてベッドに倒れ込む。
 リズは疲れ切ってドニの腕の中で眠っていたけれど、ドニが彼女の髪に頬擦りしているとそっと目を覚ました。

「ねえ、戦争は終わったけど、私たちはもう離れられないよ。そうでしょ?」

 二人は戦いの時代に本来叶わぬ出会いをした。だから終戦と同時に離れる運命なのだろうか。お互いの世界がお互いを待っているから。

 でもそれなら

「旅したいな」

 二人が股に掛ける世界は広いと、そういう解釈もできるのだろう。そして時々は村へ帰ろう。

「私を置いていかないって、約束だよ」

「勿論だべ」

 お互いが夢へ向かって進み始める。でも、離れることはない。ドニの形見の謎を探すなら、一緒に旅へ出るし、リズが王族として政治的な役目を担うならドニも手伝うだろう。

 百年の後、勇者として名を遺したドニと、彼を支えたイーリス第二王女の逸話はあらゆる本に残ることとなる。時に貿易で様々な土地に現れ、時に故郷の村で農作業をする、かつての勇者と王女の姿は、いつまでも歴史の片隅で人々に語り継がれた。