それを愛と呼んでいるだけ
無尽蔵の体力を持て余している騎士隊長は自身の仕事が忙しかろうが時間に追われていようがオフになると番を連れて出かけることが多い。彼女でなくとも、地上を歩き回りたいと思っているモンスターたちは基本的にアクティブな者が多く、引き籠ることが大好きなアルフィーでさえ、地上に出てからは毎日太陽を拝むために窓を開け、アンダインに連れられれば喜んで日光浴を楽しんでいる。
だが今日は目当ての太陽は雲に隠れ、雨雲が空を覆っていた。雨が降ろうが晴れようが魚人のアンダインには関係無いらしく、寧ろ彼女にとっては肌なじみの良い気候である。とはいえ同じく湿気を伴った空気も、地下と地上では匂いも感覚も全く違っており、アンダインはその違いすら楽しんでいた。
その日はもう夜も更けて眠ろうというのに、ベッドの上で枕に肘をつきながら、アンダインが一日を振り返って楽し気に昼の思い出話をしていた。毎度の事ながら鋭気に富んだ彼女にアルフィーは隣で感心しながら眠気眼を向けている。
枕もとのランプの明かりを相手の表情が分かる程度に落とし、アンダインはアルフィーと一緒に布団を被った。こうなると、遠く通るアンダインの声はアルフィーにだけ届く囁きへ変わる。悪戯を計画する子供のように笑うアンダインの顔は、残念なことに腕の中のアルフィーには見えない。
「雨が降るとウォーターフェルを思い出す」
「うん……」
「寒く無かったか」
「うん……」
「アルフィーの眼鏡が曇って何度も拭いたの、可愛くて……ふふ、笑ってごめん」
「うん……あ、別に、いいの」
アルフィーは心ここに在らずといったように適当な相槌を打っていた。浮かれて喋っていたアンダインも次第にそれに気付き、アルフィーの顔を覗き込む。
「怒ってる?」
「……えっ……別に……」
「嘘」
間髪入れずにそう言った。魔法の存在といえどもモンスターらは超能力者でないので、アンダインにはアルフィーの噓が判る、というわけではない。だが、気持ちの表現が稚拙なところのあるアルフィーの無意識のサインを、うっかり見逃しては苦い思いを何度もしてきたアンダインにとって、彼女の「別に」はあまり信用できるものではない。
アルフィーを責めるつもりなど毛頭無いアンダインは彼女の頭の突起を撫でた。
「浮かない顔してる。デートは楽しくなかったか?」
言われると一層アルフィーの気は落ち込んだ。それはアンダインのせいではない。実際自分が抱えている悩みの殆どは、とてもくだらない、不甲斐ない、馬鹿馬鹿しいと自己判断してしまえる程度のものだ。だがそんな小さいはずの悩みは重石のように胸を圧迫し、そんな自分を更に惰弱に思う。アルフィーは口を曲げながら昼間のことを思い返していた。
些細なことだ。
今日の雨はアンダインを一層上機嫌にさせていた。だからなのか、デート中に彼女に声をかける美女たちへ、アンダインは随分と愛想が良かったのだ。
「私、あなたのファンなの」
そう言って、一匹のモンスターが自分のポケットから名刺を取り出し、そこにキスをした。キスマークの付いた名刺をアンダインに渡して、さらに投げキッスをして去っていった。
「ああ、ニューホームにあったバーの主人か」
と一言漏らしながらアンダインは名刺をポケットに仕舞った。名高いアンダインと何度も外を歩いているアルフィー自身、最近は女性の声掛けにも慣れただろうと思っていたが、今回のようにアプローチが派手な者にはまだ平静を奪われてしまう。一部始終を呆気に取られてみていると、アンダインがアルフィーに振り返って彼女の手を取り直した。
アンダインからすると仕事で関わった程度の知人とも呼べない相手だった。彼女の整理された思考の元では、女性に声をかけられ二、三語言葉を交わしたら後はまた忘れてしまう。だが、アルフィーの目にはそのフラットな対応が、重すぎず軽すぎず、何かしらの関係を持っているように見えて仕方なかった。一言真相を聞けば良いものを、臆病なトカゲにはそれができず、美女たちとアンダインの過去を心の隅で悶々と妄想し、気にかけながらせっかくのデートを過ごすことになった。
英雄のパートナーになってしまったのだから、こんなこと気にしてたらダメだとわかっていた。持ち前の思考力は客観的な事実を把握することには長けていたが、心に納得させるにはアルフィーの認知はまだまだ歪んでいた。
(気にしたって仕方ないじゃない)
理性がそう言い聞かせても心は(前にも似たようなことがあった)(私、デートするたびに惨めな気持ちになるのかな)と不満を上げ連ねて拗ねている。そうこう考えているうちに、アンダインがアルフィーを抱く腕に力を込めた。
「私のせい?」
「違うよ……!」
そう、違う。自分の心の問題だ。アンダインは悪くない。アルフィーは目をぐるりと回しておちゃらけてみた。
「私がちょっと不機嫌になったって、ほっといて平気だよ」
その方がアンダインも煩わしくないだろうし、自分も気が楽だとさえ思ってしまう。だがアルフィーが無理やり茶化した雰囲気はアンダインの真顔に簡単に払われてしまった。アルフィーはムード作りが壊滅的に下手だし、アンダインは壊滅的に空気を読まない。それが二人が上手くいっている理由のひとつでもあるが。
「私にアルフィーを放っておけと言うのか?」
まるで「無理難題を」とでも言いたげなニュアンスを込めてアンダインが言った。とはいえ、アンダインにわけを話しても詮無きこと。彼女は今後も沢山愛され賞賛を浴びるだろうし、行く先々で声をかけられる。攻撃ならまだしも称揚であれば英雄にはどうすることもできないはずだ。
(たまにはほっといてよ……)
日陰を好むトカゲとしてはアンダインの威名も光輝も眩しすぎて、放っておいてくれないかと思う時がある。だがそれは難しい。周囲から眼差されるアンダインではあるが当の英雄の視線はアルフィーに向きっぱなしだし、それを咎めることも出来ない。出かかった台詞を飲み込んだ。
アンダインはアルフィーの言葉をじっと待っていた。こんな時だけがアンダインが大人しくしていられる時間だった。
「アンダインのせいじゃないよ。もういいでしょ?」
「そんなこと言うけど、メタトンには相談するんだろ」
痛いところを突かれ、アルフィーはぎくりとした。今度は魚人のほうが不機嫌そうに口を尖らせる。そして、アルフィーの憂愁が自分のせいでないのなら…と、刹那躊躇しながらも彼女を抱く腕に力を込めた。本当にアルフィーを怒らせていたら拒絶されることもあるかもしれないが、そんな場面は起きたことがないし、彼女は基本自分の抱擁を拒むことは無いだろうという自信がアンダインにはあった。
何故か分からないが消沈したお姫様の機嫌をどう取り戻そうか考えながら、取り合えず体だけは捕えておきたい。傍に居てくれさえすれば、アンダインは決して諦めず、何度だってアルフィーの心をこじ開けようと試みることが出来るのだ。アルフィーから素直な気持ちを聞き出すのは根気が要るが、アンダインはそれを面倒だと思ったことはなかった。それよりも彼女にとって恐ろしいのはアルフィーが自分の手の届くところから消えてしまうことだ。
「あなたは優しすぎるの」
「ダメなのか?」
「ダメ……じゃないけど、優しくされたくないときも……あるでしょ?」
戸惑うアルフィーが消え入りそう言うと、アンダインが更に抱擁を強めた。愛し合っているのに傍にいたくないとか、優しくされたくないとか、アルフィーのそんな複雑な心境をアンダインは理解できない。自分はいつだってアルフィーに優しく構われたいと思っているし、可能な限り傍に寄り添いたいと思っているのに、なぜアルフィーはそう思ってくれないのだろうかともどかしくなる。
「メタトンは許すのに?」
アルフィーと違って嫉妬を隠さないアンダインはしつこく友人の名前を出した。彼女がおそらく一番信頼しているあのゴーストは、アンダインの脳内で涼しい顔をして、アルフィーの背中を優しく撫でていた。悪いことではないが面白くない光景だ。
別に彼を非難したいわけではない。アルフィーを一番理解しているのも愛しているのも、頼られるのも、その他のアルフィーに関するあらゆることで、自分が一番でありたいとアンダインは願っている。単なる嫉妬である。
(アイツと私で何が違う)
アルフィーは心に踏み込まれたくないのかもしれないが、自分は彼女の心にもっと踏み込みたい。そのギャップがアルフィーの口を閉ざさせているのかもしれない。
アルフィーに素っ気無い物言いをするすまし顔のメタトンの無機質な瞳(機械なので)を思い出す。あれは彼なりの優しさであるが、それでも
(私には無理)
アルフィーをじっと見つめてしまうのを止められないし、構うのも止められない。メタトンを真似たところで上手く行きはしない。アンダインはそこまで思い至り開き直った。
「私は優しくない」
「えっ……?」
「自分勝手なモンスターだ」
アンダインが何を言っているのかアルフィーには理解できなかった。自分勝手なモンスターというのは自分にこそ相応しく、アンダインに一番不似合いな表現だ。
一方アンダインは自分のアルフィーに対する劣情に優しさなど無いと思っていた。自分が勝手にアルフィーを想い、愛し、執着し、彼女がその意思で自分から離れようとしたところで、きっと許してやれないことを分かっていたからだ。
(それは優しさじゃない)
でも、そんな聖人君子がどこにいるのだろうか。好きな相手を手放して苦しまない生き物が居たとしても、アンダインにはその心を知得することはできない。難しいことは解らずともアンダインの中で確かに自覚しているのはアルフィーへ向かう強い想いだけ。それを自分はたまたま愛と表現しているにすぎない。
(きっとアルフィーはそれが嫌なんだ)
自分の強い恋慕がいつかアルフィーを傷付ける気がしていた。メタトンがアルフィーを大切に思っている程度が彼女にとって居心地がいいのかもしれない。それを解っていてもアンダインに到底納得できるものではなかった。
沸々と不愉快な気持ちがアンダインを蝕み、番の柔い体を一層抱き寄せる。急な強い抱擁にアルフィーが苦し気に唸ったので、慌てて力を抜いた。緩んだ腕の束縛に、アルフィーがアンダインを見上げると、魚人の金の独眼が濡れていた。
(どうして)
泣きたいのはこっちの方だ。そう思っているうちにアンダインの唇が額に落ちてきた。そんな慰めるような愛情表現が一層アルフィー自身の憫然さを掻き立て、思わずアンダインの胸を遠慮がちに押し返してしまう。
「優しくしないで……」
「してない」
「し、してるよ」
「もし私が優しいなら」
言いながら、アンダインの指がアルフィーの鎖骨を撫でる。それに呼応するように小さなソウルの輝きが二人の間でまたたいた。
「こんなことはしない」
「や、やだ……!」
アンダインが淡い光に指を伸ばすと、アルフィーはその手を弱々しく掴んで懇願の表情を彼女に向けた。そんな彼女の哀れな声も無視してアンダインは彼女の暖かいソウルに指を這わす。アルフィーの体がぶるりと震えた。
「ゃ……っ」
光に触れた指先から、アルフィーの直近の感情と記憶が霧のようにアンダインへ流れてくる。小さな嫉妬、大げさな自己嫌悪、制御できない混乱、アンダインに対する慕情と憧憬、そして惨めさ。
アルフィーがなぜこれらに苛まれているのか理解できないし、そう思わせてしまっている自分に対しても腹立たしくなる。
気付けば、アルフィーの小さい瞳から涙がいくつか落ちて、寝具にシミを作っていた。アンダインは慌ててアルフィーのソウルから手を離す。止め処無い涙を拭おうと黄色い頬に手を伸ばしたが、彼女は枕に顔を埋めてそれを拒んでしまった。その小さな拒絶が、自分のしでかしたことの大きさをアンダインにつきつける。
ソウルは相変わらず無防備な姿をアンダインの目下に晒し、アルフィーからの信頼が揺らいでいないことを表していた。信頼しているモンスターに無理矢理心を覗かれてさぞ悲しかっただろう。そんなアルフィーの心境を想うと、アンダインの悔悟の念は増していく。
彼女のソウルをそっと返すと、小さな明かりが消え寝室に暗闇が戻った。アンダインの心も釣られるように沈んでいく。自分の真下で聞こえる頼りないくぐもったすすり泣く声がアンダインをさらに狼狽えさせた。
「ア……アルフィー……許して」
哀願の言葉を呟きながらアルフィーの腰に手を入れて背中から恐々抱き締める。これ以上アルフィーを傷つけたくはないが、そうせずには居られなかった。
「は……離……して……」
蚊の鳴くような小さな声で、そう聞こえた。聞き間違いであってほしいが、聴力が優れているアンダインは彼女の言葉をはっきり聞き取ることができた。アルフィーから明確な拒絶をされたことがないアンダインは2度目のそれに言葉を失う。しかし「離して」と願われても、それが出来ない。
「嫌だ」
自分勝手なのを承知で正直に言った。
「構わないで」
「嫌」
「お願い」
「嫌だッ」
荒げた声にアンダイン自身がはたと我に返る。アルフィーがアンダインの腕の中で縮こまった。そんなアルフィーを余計腕に閉じ込めるように、アンダインは彼女の肩に顔を埋める。
「ごめん…………」
くぐもった弱々しい謝罪が耳元で切なげに呟かれると、アルフィーの心は揺らいだ。自分の腰を抱く腕が、一瞬だけ震えるのが見えた。
「私を嫌いになったか?」
「……好き、だよ」
アルフィーは背を向けながらも首を振った。アンダインへの好意について嘘など付けない、躊躇して黙ることもできない。自分のあらゆる気持ちに振り回されようとも、それだけはアルフィーにとって考える必要の無い明確な答えだった。
アルフィーの言葉はアンダインを一瞬でも安心させはしたが、彼女の機嫌がよくないのは明白だ。自分を慕ってれているアルフィーに勝手な態度をとってしまったことをさらに悔やんで、アンダインは抱擁を強めた。
「お前が放って欲しい時に放っておけないし、一人になりたい時に一人にさせてあげられない」
「……」
「お前が嫌がるのを知っててそれでも……お前の気持ちを知りたいし、傍に居たい」
彼女らしからぬ弱々しい本音。何か……何でも良い、アンダインに優しい言葉をかけてあげたいのに、アルフィーは上手い言葉が見つからなかった。惨めさと憐れみが競合した心境は彼女の感情キャパシティを越え、逃げたい気持ちから
「放っといて……!」
そう言い放ってしまった。頭を殴られたような衝撃がアンダインを襲い、息を飲む。
「大事な相手にほど……弱みを見せたくない気持ちなんか、ア、アンダインには、わかんないでしょ……ッ」
「わ、わからんが」
「だったら……」
「でも、放っておいたらお前が居なくなりそうで……」
「わ……わ、私が居なくなったって、アンダインが困ることなんか無いし」
「なッ!? どうしてそんなことを……!」
アンダインが思わずベッドから体を起こし、相手を睨むと驚いたアルフィーは更に枕に顔を埋めてしまう。トカゲの臆病なソウルの鼓動が、繋がっていなくてもアンダインに伝わるようだった。怯えた番を刺激しないよう、アンダインは可能な限りゆっくりと、アルフィーを抱き寄せた。急に寂しさに襲われ、深い溜息を吐く。
「……わかった。抱き締めさせてくれたらそれ以上ねだらない」
その晩、二人ともそれ以上口を開かなかった。
◇◇◇
「アンダイン。オレもうそれ三回聞いたよ」
「お前なら何回でも慰めてくれる……」
「そうだね!」
パピルスはテーブルに伏せったアンダインの頭をぽんと撫でた。
「別に博士に冷たくされてるんじゃないんでしょ?」
「アルフィーは優しいからな……」
あの夜の翌朝、アルフィーはアンダインの腕から勝手に逃れることもせず、じっと彼女が目覚めるのを待っていた。アンダインが目を覚ますと、困ったように「おはよう」と言ったきり悲しそうに目蓋を伏せた。
それから、アンダインが抱き締めてもキスをしても、それを拒みはしないものの、石のように固まって困惑顔を小さな手で隠してしまうようになった。
どことなく余所余所しさが数日続き、アンダインはしばらく涙を飲んでいたが耐えられずに弟子でもある親友に吐き出すため彼を訪れていた。
「私は最低だ」
「そうなの?」
「同意もなく彼女の心を覗いた」
「ああ、それは、ダメだったかも。でも謝ったんだから」
パピルスの言葉は興奮したアンダインの感情を良くも悪くもニュートラルの方へ引っ張ってくれる(時々逆に振り切れさせることはあるが)。そんな彼に甘えてアンダインは気持ちを好き勝手に吐き出しては他所の家のテーブルに涙を落としていた。パピルスはそれを責めもせず彼女にハンカチを差し出したが、アンダインはそれで涙を拭う気にもなれなかった。
「許されたい」
「それは博士次第だね」
「わかってる」
「許してくれなかったらどうするの?」
「……どうも……しない」
「なら悩むこと無いね!」
パピルスの言う通りだ。アンダインはアルフィーの許しが有ろうが無かろうがこの関係を変えようとか壊そうなどというつもりは毛頭無かった。彼女に対する束縛だ。そんなことを宣言して更に嫌われはしないかという心配はあった。いや、考えるまでもなく
「嫌われる」
「それって悲しい」
パピルスの眼球の穴の奥で慰めるように光が瞬いた。この純粋な光に一体何名が救われたか知れない。
「思うんだけど、博士はアンダインを嫌ったりしないと思うな」
可愛いことをいう弟子を見上げた。だが彼は知らないのだ。自分がどんなに狂気的な想いで彼女を愛しているか。その切っ先は常にアルフィーに向いていて、いつ彼女を傷付けてもおかしくない。
「だからね、きっと、彼女もつらいんだ」
「そうだろう、私にあんな扱いをされれば」
「そうじゃなくて」
パピルスはデスクに肘をついて、無邪気に優しく笑った。
「博士はアンダインが大好きだよ。だから余計に辛いはず」
「……」
あの時、アルフィーは苦しそうに好きだと伝えてくれた。想いを伝えることを辛いと感じたことの無いアンダインには想像できないが、兎に角、自分を想ってくれる故の苦悩があるのだろう。パピルスの言葉に少しの光明が見えた気がしたが、それでもアンダインは目蓋を伏せたままだった。
「私でなかったら、あの子をあんなに苦しませはしなかったのか」
自分がアルフィーを選んでしまったから……求愛し、手に入れてしまったから、こんなに悲しませてしまっているのだろうか。もっと優しいモンスターが相応しかったのではないか。そうは思っても、だからアルフィーを自分から自由にしてやろうと言う気にはなれなかった。
苦し気なアンダインの言葉とは裏腹に、パピルスは笑って言った。
「アンダインじゃないと、無理!」
◇◇◇
「私、最低」
仕事が一区切りつく度に鬱陶しいため息が漏れた。いつもより仕事が手につかなかったが、アルフィーはそれでも何とか今日の分のデータを仕上げ、クラウドにそれをアップロードすると、自分に対する鬱憤を無意識に吐き捨てる。
心が弱いばかりに、愛しているはずの相手を傷付けてしまった。アンダインの優しい手を拒んだ時の彼女の表情が忘れられない。忌まわしい記憶はいつまで経っても消えず、アンダインが触れてくれる度に、彼女の優しい腕を享受する資格など自分にはないと、罪悪感がアルフィー自身の体を堅くさせた。よりにもよってどうして自分のようなモンスターをあの英雄様は選んでしまったのか。
どうすれば先日の贖罪になるだろうかと考えても無力な自分に出来ることなど無いだろうと思い至る。その度に何度も憂鬱になるのを繰り返していた。
「遅くなってごめん」
聞き慣れた低い声が後ろで声をかけてきた。アンダインが帰ってきた気配にすら気付かないほど考え込んでいたのだろうか。画面の一点に集中していたアルフィーはぱっとモニターから顔を離してディスプレイの時間表示に目を向けた。夜の時刻を指している。
「お帰り! ごめん、夕食の支度が……」
アンダインに向き直り椅子を降りて彼女に駆け寄ったが、しかしその目を見ることができずに、視線をそらしながら言った。キッチンへ踵を返そうとするアルフィーを、アンダインはいつもより遠慮がちに手を伸ばし抱き締める。アルフィーはやはりそれを拒まず、じっとアンダインの抱擁に耐えて息を殺した。いつもなら、ただの挨拶のハグなら数秒で解放されるはずだったが、今日はいつまで経っても放されない。
「まだ、怒ってる?」
アンダインがやっと口を開くと、アルフィーは慌てて首を振った。
「アンダインこそ、怒ってないの?」
「何に?」
「何って……」
言われ、アンダインの顔を見上げる。いつもより熱い視線に射抜かれそうになり、耐えられずに目をそらした。アンダインはアルフィーの頬に手を添えたが、無理矢理顔を上げさせることはせず、ただ柔らかい頬を指でなぞった。
「怒ってる……の、かもしれない。アルフィーのせいじゃないけど、でも……」
アンダインの目の下に少しだけ影が落ちたが、アルフィーは気付いていない。しかしトカゲの臆病な勘が、アンダインの静かな怒気を少しばかり感じ取った気がして顔を上げられなかった。
「もしお前が私から離れたいと思ってたら、それだけは絶対に許さない」
アルフィーのソウルが跳ねた。逃げたい気持ちをアンダインに見透かされたと思い、息を飲む。直接ソウルを覗かなくても彼女が狼狽えているのが手に取るように分かり、アンダインは眉を寄せた。
「まさか、考えてたのか」
「そ、そんなこと私……」
「私から離れようとしても無駄だぞ。誰にもお前を渡さない」
「アンダイン、ち、違うの……」
「何が違うんだ……ッ」
アンダインの荒げた声にアルフィーの体がびくりと震え、それがアンダインに伝わると膨れかけた彼女の怒気は萎んでいく。そして、またしてもアルフィーを怖がらせてしまった自分の態度を悔いた。上がった肩は空気が抜けたように哀れなほど落ちて、アルフィーから体を離した。両手は未練がましく彼女の背に周ったままだったが。
「…………私が怖いか」
「ぜ、全然ッ」
「いつも怖がってる」
「びっくりしただけ……!」
アルフィーが首を大げさに振ってアンダインを見上げた。魚人の涙腺が緩んだが、なんとか涙が落ちるのを堪える。泣く立場ではないのだ。自分はただ駄々をこねてアルフィーを束縛したいだけ。そんな自分の偏愛を知ってほしい、欲を言えば受け入れてほしいと、子供のように強請っているだけなのだから。
アルフィーを手放したくないならもっと優しくすればいいのに、なぜそれが出来ないのだろう。なぜこんな小さなか弱いモンスターに振り回されているのだろうか。しかもアンダインは、そんな度々の当惑すら良しとしている自分が居ることも知っていた。結局のところアルフィーに振り回されたってアンダインは構わないと思っている。
「それなら、いい。ごめん」
「上手く言えない、私が悪いの」
アルフィーは何度も首を振った。涙をこらえているアンダインを、前回のように傷付けるわけにはいかなかった。乱雑な頭を落ち着かせようとしたが、思うようにいかず、結局癖の吃音が出てしまう。
「あの、あの、私、この前は、その、ごめんね!……ああ、えっと」
アンダインはじっとアルフィーの次の言葉を待っていた。ぽつぽつとたどたどしくアルフィーが口を開き始めるのを彼女の背中を撫でながら聞いていた。
「アンダインは、し、知ろうとしてくれたのに……。上手く言えないくせに、ソウルも見せたくないなんて、我が儘言って、泣いて、困らせて……」
「アルフィーは悪くない」
「アンダインは優しいから、でも……」
「違う。優しかったらお前をそっとしてやれば良かったのに、私はそれが出来ない。だって、アルフィーは少しでも目を離すと……」
アンダインがそれ以上は言えないというように口を一度閉じた。膝を折ってアルフィーの胸に顔を埋める。彼女の耳元で一度呼吸をすると、アンダインの緊張が伝わったのかアルフィーも息を止めて続きを待った。アンダインの頭を抱き返し、深紅の髪を撫でる。その行為一つがアンダインの熱愛に火をつけた。
「私、こんな愛し方しかできない」
それでもアルフィーに許されたい。いつか彼女を閉じ込めて傷付けてしまうかもしれないがそれでも、アンダインは正直にアルフィーの愛が欲しかった。
「まだ私のこと愛してる?」
「うん」
間髪入れずにアルフィーが頷いた。前もそうだった。アルフィーはアンダインのその質問にだけは必ず即答で頷く。
「うん。愛してるよ」
アンダインが黙っているのでもう一度答える。この質問はアルフィーが唯一アンダインが何を求めているか理解できるもので、アンダインが求めているものを探しているアルフィーには縋ってでも伝えたい回答だった。
もしアンダインが自分の気持ちを求めているのだとしたら、自分の忸怩たる想いを晒しても良いとさえ思い始めていた。
「私、すぐ逃げたくなっちゃうし、自分が嫌いだし、アンダインの気持ちに上手に応えたいのに出来ないし……」
「……」
「でも、ほ……本当に、アンダインが望むなら」
アルフィーが蚊の泣くような声で呟いて、自分の胸に手を置くと、優しいプロミネンスを放射したソウルがアンダインの目前に現れた。アンダインは喉を鳴らしてそに触れようとしたが、我に返り手を引っ込める。
「い、否。駄目だ」
「どうして」
「この前泣かせたばかりだし……」
アルフィーが漸くアンダインの目を見つめたが、今度はアンダインが視線を逸らす番だった。
「アンダインは……私が逃げても、我が儘言っても、追いかけてくれる。天邪鬼になっても抱きしめてくれる」
「当然だ。私が望んでることだ」
「私、それですごく、救われてるよ」
アルフィーの言葉に、アンダインは更に表情を暗くした。アルフィーをあらゆる面で救いたいと思っていても上手くいかない自分に腹立たしいと思う。目の前で輝くアルフィーのソウルをこんなにも愛しいと思うのに。アンダインは優しくまたたくソウルを夢見心地に見つめた。
「アルフィーの心を救う力は、私には無いのかもしれない」
「そんなこと……」
「それでも、諦めない。だから傍に居てほしい」
「…………うん」
頷いたものの、約束できない、というのがアルフィーの正直な気持ちだった。またいつか、この強いソウルの持ち主が眩しくなって、逃げたくなる時が来るだろう。どこか遠くない未来で自分がこの約束を破ってしまったら、またアンダインを傷付けてしまう。
「お前の心が揺れてる」
アルフィーのソウルの切ないエーテルを感じ取ったアンダインが言った。
「い、いいよ、見て……ッ」
上手く言葉にできない。もう直接覗いて見てほしい。アルフィーはアンダインにそう訴えるよう見つめた。いつまでもソウルを晒しているのも恥ずかしい。アンダインはそれに頷くと、立ち上がってアルフィーを抱き上げ、いつも以上に大事に彼女を抱えて寝室へ向かう。
アルフィーの深い闇を把握するのはまだまだ時間が必要だったし、もしかしたら一生理解できないかもしれないとアンダインは思った。だが、彼女が何を心配しているのか、何を憂いているのか、それを知ったところで自分のやることは変わらない。
そしてアンダインのそんな危うい狂愛をアルフィーも把握できていなかったし、全て受け止められる日は来ないかもしれない。注がれる情が自分の器から溢れ出てそれに溺れることがあってももうそれで構わないと、数年の同棲生活でアルフィーも次第に思い始めていた。
(死ぬほど愛されるって、こういうことなのかな)
ベッドの上でアンダインとソウルを重ねながらアルフィーは心の隅でそんなことを思った。二人の乱れる息と声の合間にアンダインの笑う気配を感じ取る。
少しはアルフィーに自分の気持ちが伝わったらしいと悦に浸ったアンダインは一層ソウルを溶かしてアルフィーの奥に進んだ。快楽でベッドが軋む。観念したアルフィーが
「もう一杯だよ……ッ」
そう降参したように訴えても、数日心が離れていた埋め合わせをするように、アンダインがばつの悪い顔をして
「ごめん、まだ」
と口では申し訳なさそうに言いながら、それでも容赦なくアルフィーの身も心も夜通し貪ったのだった。