君の声で呼んで

小説
迫バン

自分の名前なんか大嫌いだった。

 
 
 

 俺の両親は、ジョークを言いたいから俺にこんな名前を付けたんじゃない。力強く生きる男になるように、この名前が与えられた。
 小学校に上がり周りも自分も熟語を読めるようになると、名前を揶揄う奴が出てきた。まあ、それも一時的だったけれど、時々そうやって揶揄って来るのは居る。
 でもそれより、俺の小柄な容姿にケチをつけるほうが、高校に入って多くなった。無礼な視線を上から投げて来る乱暴者は多くて、悔しさに時々喧嘩もした。喧嘩は嫌いだったけれど、舐められているのもそれはそれで少年のプライドが許さなかった。
 両親が俺にスポーツをさせていたのが幸いしたのか災いしたのか、俺は喧嘩は人並み以上程度強く不良の間では一目置かれていたようだけれど、それで相手に怪我をさせて後悔したこともある。
 名付けられたとおり、ある程度力強い少年に育っていたようだった。だが、両親が俺にこの名を与えたのは、何も喧嘩に勝つような男になって欲しいからで無い事ぐらい、高校生の俺にも解っていた。

 つまり、学生の時の俺は不良でも優等生でもなく、ごく普通の男子高校生というには快活な方で、中途半端に馬鹿をやって、内心「俺って何だ?」と思春期にありがちなアイデンティティに悩みながら人並みに荒れていたのだ。

 名前をくれた両親を怨んだりはしなかったが、結局成人してからもこの名前を好きになれなず、かといってこの頃になるともう嫌いという訳でもなく、いつしかどうでもいいと思っていた。
 そう「そんな小さな事、もう気にしたって無駄」と考えるようになっていたのだ。
 教員免許を取り、生徒の前で教壇に初めて立ったとき、とっさにあの自己紹介が浮かんだ。
 お蔭で、生徒達はすぐに俺の名前を覚えてくれて、各々好き勝手にあだ名をつけては俺を呼ぶ。

 大迫先生

 大迫ちゃん

 ダイハクリョク先生

 大迫、なんて不遜な態度で呼ぶやつもいるが、彼らなりの甘えだと解ると可愛い物だった。

 「先生」

 自分の名前を嫌って卑屈になっていた時期からもう10年以上経っていた。
 過去、交際した女性たちに名前を呼ばれるのが何となく嫌だったけれど。今付き合っている恋人にいつまでたっても「先生」と呼ばれるのが、それはそれで良い気がしない。
 彼女は俺の教え子だった少女だが、それも何年も前の話だ。それでも彼女にとって俺は元とはいえ「先生」だったわけだし、そうと呼ばれるのは仕方ない。でも、彼女の声で俺の名前を呼んで欲しいと思った。こんな気持ちになったのはもしかして初めてじゃないだろうか。

 「俺の名を呼んでくれ」

 そんなお願いがすんなり出た。
 彼女と交際するにあたり、心のどこかで俺は惚れられている優越感を持っていて、それを自覚してはいたけれど、同時に俺自身が彼女に惚れているのも解っている。
 優越感というよりは安心感なのかもしれないが、あの子が俺に本気で長い片思いを抱いてきたかことを知ったから、むしろどこか負けているような気さえするのだ。
 俺がどんなに言葉を投げ、愛撫し、贈り物をしても勝てないのではないかという焦燥感が拭えない。だから時々荒々しく抱いてしまいそうになるし、言葉をだらだら羅列してしまったり、それがまどろっこしく感じて結局は「好きだ」の一言に集約してしまったりと「なぜか好きな女の前では格好悪くなる男」を見事に俺自身が表現していた。

 それでも彼女は俺の事を「格好良い」と褒めてくれるし、俺だって人間だから間違えたり失敗するけれど、その都度彼女は全部受け入れて笑ってくれるのだ。
 だからというわけではないが、あの子にならこの一見冗談でつけられたような名前すら本気で愛してくれるかもしれないと女々しい事を考えた。
 本当なら例え恋人だろうと自己肯定を他者に頼ってはいけないのだろうが、正直な事を言えば人間誰しも愛されたい願望があって、俺はそれをつい彼女に求めてしまっていた。浮かれているのだ。

 自分を肯定し、愛する事は、自分にしか出来ない。でも、俺の名前を彼女の声でききたいと思うぐらい、いいじゃないか。

 「ちからさん…」

 俺のお願いに、怖ず怖ずと、鹿乃はこの名を口にしてくれた。
 「さん」なんて他人行儀かもしれないと思ったけれど、それでも俺はとても嬉しくてたまらなかった。
 真っ赤になって俯いている彼女は、もじもじと指を遊ばせている。名前を呼ぶだけで何を照れているんだ?と思ったが、俺も俺で呼ばれた嬉しさに顔が熱くなっていた。
 自己肯定をたまに彼女に頼ってしまうけれど、もう自分の名前も、容姿も、嫌いだと思っていないし、普段はむしろ自身の事は好きだ。それでも、こんなに自分の名前を良い物だと思った事はなかった。

 「なんだ」

 呼んでくれと頼んでおいてそんな返しをしても、鹿乃はくしゃっと笑ってまた俺の名を呼んでくれた。

 「ちからさん」

 「ん?」

 「力さん…」

 「おお」

 「…えへへ」

 照れくさそうに笑う彼女を腕に閉じ込める。急な事で驚かれるも、もう慣れたようで、俺の背中に手を回してきた。

 「貴方の名前好き」

 「この名前の、どこが好きなんだ」

 「呼ぶと、力さんが返事してくれるところ」

 「あっはは!」

 「それから、貴方の名前ってところ」

 「…」

 「貴方にぴったりなところ」

 「…」

 「その字をみると、貴方を思い出すところ」

 「鹿乃」

 「はい………」

 鹿乃がぴたりと固まる。息すらしていないようにぴくりともしない。驚かれたかもしれない。俺も彼女の名前を始めて呼んだのだ。
 俺の名を好きだと言って無邪気に理由を列挙する彼女が愛おしかった。

 「私の名前…」

 「駄目か?」

 駄目だなんて言われない事が解っているのに聴く俺は意地が悪い。
 でも、意地悪もしたくなるじゃないか。

 「全然!呼んで下さい!」

 こうやって嬉しそうに尻尾を振られると、時々意地悪したくなる。そのくせ、喜びも悲しみも素直に受け止める彼女を苛めるのは忍びないから、お詫びのように甘やかす。
 俺は何をしているんだろうな。もしかしたら、踊らされているのは俺の方なのかもしれない。

 「鹿乃」

 「はい」

 折角返事をしてくれた彼女に「キスしてもいいか?」と訪ねようと思ったのに、勝手に体が動いて勝手にキスをしていた。
 いきなり抱きしめても、いきなりキスしても、彼女は俺を咎めもしないでその愛情表現を受け止めてくれる。

 「鹿乃」

 「力さん…」

 名前を呼び合う。意味もなく呼び合うだけ。たったそれだけが気持ちよくて、目を閉じて恋人の甘い声を聞いた。

 「俺、自分の名前が嫌いだった。ああ、ガキの頃な」

 「どうしてですか?」

 「冗談みたいな名前だろ?」

 言うと鹿乃はふふっと笑った。

 「実は私、あの自己紹介、凄く好きだったんです」

 「何故だ」

 「ほら、私ってあんまり、指されないし、地味だし、クラスの中で発言とかいっつも怖くて。でも先生と目が合って、ドキドキして、なんだかその時だけ、先生の特別になったみたいで」

 もう、5年以上前の思い出を嬉しそうに語る。

 「せ…力さん、の、名前、格好良いですよ」

 「お前はそう言ってくれるけど、ガキの頃はそりゃあ揶揄われて悔しい思いもしたんだぞ」

 「そっか……」

 「それに、同級生に比べてずっと小柄だったし、こんな顔だしな。時に男に舐められ、女子に笑われたりしたが、元から案外図太かったから、睨み返して不良呼ばわりされたもんだ」

 「…」

 「不良と言えば、不良扱いされたもんだから本物の不良に絡まれたりして怖い思いもしたなぁ。まあ、幸い喧嘩は負けなかったが、逆に怪我させて、ヒヤヒヤしたぞ」

 話を聴きながら、鹿乃は俺の腰に回した腕に力を込めた。
 抱き締められて、撫でられる。

 「つらかったんですね」
 まるで母親が子供にするように労りの声をかける鹿乃。

 「昔の話だ」

 「…」

 まるで母親…とは思ったけれど、俺の母親は厳しい人だった。早いうちに父を亡くしたから、女手一つで俺を強く育てようと必死だったのだろう。幸い家の資産は多く、生活に不自由しなかったが、世間一般で言う母親の優しい愛情にありつけたのは、まだ父が存命だった遠い赤子の頃の思い出だけだった。
 急に鼻の奥がつんと痛み、涙腺が緩む。あの頃は母に心配をかけていたから、甘えるという選択肢が思い浮かばなかったし、もう高校生の良い歳の男児が辛い心境を吐露するには照れがあったが、俺のあの頃の荒れた心が遡及的に今、彼女に癒されているようだった。
 俺の中に残る子供が、泣きたい、と言って喚いているような気がする。
 彼女よりも8つも歳上の、元教師の男が頼られこそすれ甘えるのもどうかと思うけれど、彼女なら全て受け入れてくれるような気がした。もしかして、甘やかし上手なのかもしれないな、鹿乃は。

 俺は彼女の肩に顔を埋めて黙った。背中を撫でる手が温かい。

 「力さん?」

 「…」

 「大好き」

 不意打ちな言葉に急にじわりと涙が瞳に溢れてきて、一粒零してしまった。
 悲しくも何ともないのに子供のような気分になる。彼女の襟に涙が落ちて慌てた。

 「すまん」

 「ぇ…」

 俺の声が思ったより震えていている。

 「泣いてるんですか…?」

 「いや…」

 「…勘違いでした」

 俺の見え見えの嘘に、鹿乃が否定もせず優しく頷いた。彼女はよくこんな風に俺を立ててくれる。
 別に亭主関白をしたいわけじゃないが、気遣いは嬉しい。

 「もし、例えばですけど、泣きたい時は泣いてもいいんですよ。私なんか、いつも力さんに甘えて泣いてるから」

 「うん、そうか…ありがとう」

 彼女が良いと言ってくれるから、俺は遠慮なく泣いた。泣くという行為は非常に体力を使うと見えて、俺はたった数粒涙を流した後、横になりたくなって恋人を抱き上げ寝室へ向かった。ベッドの上で彼女を抱き締めながら声もあげず泣いた。時折ぽつりぽつりと言葉を交わしては、また泣いた。
 鹿乃が伝染したように一緒に泣いていた。

 「お前、何が悲しいんだ」

 俺は泣きながら笑った。

 「ついでですから」

 彼女の答えに、また笑った。お互いの涙を拭い合って頬を撫で、親にしかられた兄妹みたいに、慰め合えるのは自分たちだけだと言うかのように寄り添って眠った。

 
 
 

 目が覚めると、カーテンからオレンジの光が射し、折角のデートが終わりを迎えそうになっていた。鹿乃が目を覚ましたら、彼女のアパートまで送って行かなければならない。

 あー…嫌だなあ…

 ずっと此処に居て欲しい。そんな自分勝手なことを考えていた。彼女に対して身勝手になりそうになる心を理性が叱りつける。
 そうこうしていると、鹿乃の瞼が開いた。俺の腕の中でもぞもぞ動いて周りを見渡している。

 「もう、夕方?」

 そう言うので途端に寂くなった。彼女を腕に閉じ込めてじっと眠った振りをする。
 鹿乃が耳元で

 「お泊まりの用意してきちゃったんですけど…」

 と言った。俺の心臓は踊ったけれど、彼女は気付いていないようで

 「寝てるかな…? ねえ、力さん…」

 と、俺の名をまた甘い声で呟いて、腕の中で大人しくなった。

 自分の名前なんか大嫌いだった。でも…

 鹿乃が紡いでくれるなら、きっとそれは俺の宝になって、これからもっともっと自分自身を好きになっていくだろう。そして彼女は、俺に与えた物に自覚なんか無くて、俺が返そうとする愛情に戸惑うかもしれないけれど、そうやって困った顔をする恋人を笑って、構わず愛していこうと思う。

Fin