炎の印 – 日の出

小説
迫バン
連載

ー カノは先生の事好きだって

 子供達がカノに向けた熱い視線。たぶん、俺はそれ以上に熱く彼女を見ていたかもしれない。真っ赤になって俯いていたカノには気付かれなかったかもしれないが。

 彼女の薔薇色の頬を思い出しながら、それから数日、俺は幸せな気持ちで眠ることができた。
 そして、今日。まだ日の出もない深夜に目が覚めてしまった。昨夜ちょっと食べ過ぎてしまったせいだろうか。カノの料理が豪勢だったのだ。別に贅沢なものを出したのではない、俺の好きなものがズラリとテーブルに並んでいた。そして、どこか複雑そうな顔をした彼女が微笑んでいた。

「何かの記念日か?」

 と聞いても首を振るだけだった。嬉しいことでもあったのかもしれない。ただそうとしか考えていなかった。俺は彼女の料理を堪能して満腹を楽しんで気持ち良く眠りについた。目覚めは良いが、もう少し寝ていようかと枕に顔を埋めた。

「ん?」

 腕に、かさりと何かが触れる。
 
 
 
ー 力さんへ

 彼女の字だった。いつ置かれたのだろうか、昨日は気づかなかった。ずいぶん枚数が入っている手紙。一体なんだろうと、期待と不安を抱きながら1枚目を開く。

ー 初めて会ったときの事を覚えていますか。

 そんな文章からはじまったので、俺は居住まいを正して改めて読み始めた。

― あの時、あなたがあそこに現れなければ、私はきっと恐ろしい目に遭っていたでしょう。だから、あなたは私の命の恩人です。とても感謝しています。住むところも、着るものも、食べ物も、全部あなたが与えてくれたから、私はひもじい思いもしないで人間の世界で何不自由なく3ヶ月を過ごせました。感謝してもしきれません。

「人間の、世界…」

 いいんだ。俺がしたくてしたことだった。あの子に会った時に、真っ先に「彼女だ」と思った。でも、確信はなかったのだ。

 密航船から海に落ち、俺はそのまま死ぬはずだった。残してきた生徒たちのことだけが心残りだったが、独り身だし、そこまで悲しむ人も居ないだろうと目を閉じた。

 その時、月明かりに微かに光るものが俺を海面までさらった。何度も呼び掛けて額に愛情深いキスしてくれて、俺は体は動かなくても遠い意識でそれを覚えていた。
 そして、月明かりに光る鱗を持った人魚が…そう、人魚だった。彼女が俺を陸にあげてくれて、俺は一命をとりとめた。
 近所の中年夫婦に助けられ、傷も数か月で癒えたが、彼女だけが夢のように心から離れなかった。あの時不用意に触れて怪我をさせてたことをいつか謝りたいと思ったけれどきっとそんな機会はないとわかっていた。

 でも、あの時カノが現れて、神でも精霊でも、運命でも縁でもなんでもよかったが、とにかく何かに感謝した。カノは鱗も尾びれも持っていなかったから単なる偶然かもしれなかったが、何となく雰囲気の似た女性だと思っていた。でも、いつしかどっちでも構わないと思い直した。俺の中で夢の具現であったカノは、既に大事な女性になっていた。

 彼女がいつか俺のそばを離れてしまわないか、最近はそればかり気にしていた。近頃文字も覚えてきて、仕事のあても何とか見つかりそうだったし、そうなったら俺の元から去ってしまうかもしれない。

 その時になったらこの想いを告白するつもりだった。俺のそばにいてほしいと。今の彼女は他に行く場所がないから、そんな時に想いを伝えてしまったら困らせてしまうかもしれない。だから言えずにいた。
 この子には選択肢を与えなければならなかった。

 俺は彼女の独り立ちを待ち遠しく思う反面不安がっていたんだ。

手紙には続いてこう書かれていた。

ー 本当はもっと恩返ししたかった。でも、もう時間がないので、お手紙だけでお礼を言わせてください。ごめんなさい。ありがとう。

「時間がない?」

ー 貴方に会いたくて、私は人間の世界へ来ました。魔女にお願いして、声を代償に、期限付きで人間の足を貰いました。人魚の尾びれの代わりに…。私は半年前、貴方に助けてもらった人魚です。

 俺はその文章を思わず目を通しなおした。あの時助けてくれたのはやっぱり彼女だったのだ。いや、そんなことはもうどうでもいい。俺は先を急いで読む。

ー 気持ち悪がられるかもしれないから秘密にしていました。黙っていてごめんなさい。本当はもっと力さんと一緒に居たかった。
 もっとそばで貴方を見ていたかった。一緒に外を散歩して、地上の土を踏みしめて、もう一度城下のお祭りを一緒に見て回りたかった。

 貴方を愛していると、本当は口で言いたかったけど、それも叶いませんでした。
 日の出とともに私は泡になります。せめて故郷の海の泡になりに行きます。

さようなら。
 
 
 

「…?!」

 俺は手紙の後半を読みながらもう立ち上がっていた。足は隣の家 ー 学校へ向かう。勿論、彼女の部屋はもぬけの殻だった。俺は浜辺へ向けて駆け出した。
 こんな寒い夜に海に入ろうというのだろうか。夜が明けたら、彼女は消えてしまうのか?さっきの笑顔も、共に過ごす食事も、最後だったのだろうか。どうして何も言ってくれなかったんだ…!
 そんなことが頭をよぎって後悔や自分に対する怒りで体が震えていた。彼女が浜辺まで歩いて行ったとしたら、ちょうど着くころだろう。誤って身を投げたりしないでくれと願いながら俺はただ走った。

 海辺への坂を下ると、遠くの浜に朝まだきの暗闇にまぎれて白いカノの姿が見えた。寄せては引いていく波に足を入れて、ただ立っていた。まるでこの世のものではないような彼女の姿にゾッとする。何か得体の知れないものが彼女を連れて行くような恐怖。
 いつもならこんな距離どうということはないはずだが、俺は息を切らせていた。かろうじて彼女の名を叫ぶと、カノがこちらを振り返って目を見開いた。その視線に視線で訴えた。
 
 
 
行くな
 
 
 

 
 
 
 波を蹴ってカノの元へたどり着く。抱きしめるとちゃんと彼女は存在していて、まだ消えていはいなかった。だが、カノの体はひどく冷えていた。
 残り少ない時間のために一番大事な言葉を探してただ彼女を見つめていた。彼女も俺を見つめて何かを訴えていた。太陽が地平線へ光の線を描いて、いよいよという時に俺はやっと

「お前を愛してる」

そう言った。

 多分これが一番大事な言葉だろう。カノの瞳から涙がいくつも流れて波に消えた。この涙と同じように彼女の体は海の一部となってしまうのだろうか。

「消えないでくれ。他に方法はないのか!」

「力さん…」

「愛しているのに。こんなに…!」

 太陽が彼女を奪ってしまう気がして、彼女を抱き上げて太陽に背を向けた。いつ彼女の温もりが消えてしまわないかハラハラしながら強く抱きしめていたが、カノが苦しそうに呻く声にはっとして体を離す。

「すまん…!」

「いいえ…」

 それから俺たちはお互いの目を見合って言葉を失った。

「お前、話せるのか?!」

「そう、みたいです…」

 カノが気まずそうに俯いて小声で答えるがその声はよく聞こえた。

「そんな声だったんだな」

 聞いてみたかった。高すぎず低すぎず、耳に心地の良い彼女の囁きが耳を撫でる。

 太陽が強い光で浜に俺たち二人の影を伸ばしている。もう大丈夫かと思いながらそっと振り返ると、海が日の出の光を照らした煌めきを波に乗せて足もとまで運んできた。カノと視線を合わせると、彼女の瞳に波に散らばる日の光がキラキラと宝石のように輝いていた。

「力さんの瞳、とても綺麗ですね」

 うっとりと目を細めて彼女が言う。それは俺の台詞だ。
 今さら照れ臭さが襲ってきて、俺は苦笑いをすることしかできなかったけれど、帰ったらきっとこの気持ちを彼女に全部伝えてやろうと決めた。

 
 
 
END
 
 
 
 ・ ・ ・
 
 
 

「あら、あら、あの子の呪い、解けたのね」

魔女は鏡を覗き込んで微笑んだ。

「男のために声を失うなんて馬鹿げてる」

 そう。人魚姫たちは男のために誰もが声を奪われてきた。けれど。男が本当に彼女たちを愛して、尊重して、一個人として自立を妨げず、共に歩むのなら、そのとき初めて声は戻る。

「そしてそんな男だからこそ、愛する女の声が届くの」

 魔女の上品な笑い声が海の教会にこだました。