うたごえ

小説
甘め
迫バン

 デートの終わりに、鹿乃が初めて自分から「今日はもう帰ります」と言った。
 そろそろ送って行こうかと考えていた頃合いだったけれど、それでも彼女から先に別れの言葉を言われたのは初めてで、俺は正直動揺した。自分で言うのも寂しいけれど、毎回言われる彼女も辛かったのだろうかと振り返って反省する。

 なぜ交合う経験を重ねても、最後にはちゃんと彼女のアパートまで送り届ける事をしていたのか自分でも明確な理由は無い。ただ単に最後の理性というか、暴走しがちな欲望に少しでもブレーキをかけているつもりだったのだ。
 一晩一緒にいたら、それこそ嬉しくて、夜の間ずっと腕に閉じ込めておける。それは幸せな事かもしれないけれど、今少し照れくさくて、そこまで甘えていいのかもわからなかった。俺は彼女よりもずいぶん年上だったし、俺の事を頼りがいのある恋人だと思ってくれているであろうあの子に甘えて戸惑われても、男として少し嫌だった。

 でもそれは、男側の勝手な見栄だ。「もっと甘えてほしいです」と、優しい声で願うように言われると。ああ、もう、いいや、と、そんな諦めたような気持ちになる。彼女にとって俺が張っていた見栄など小さいな事だったのだ。あの子は俺を大きいと言うけれど、そんな男を受け入れようとする度量も広い物だと思う。

 甘えて欲しいと言う彼女のお誘いに、俺は胸をときめかせて歩いた。今晩のベッドでの事を想像して馬鹿みたいに楽しくなる。これ以上無い所まで繋がっているのに、もっともっと彼女と仲良くなりたくて、愛し合いたくて、身も心も深く繋がっていたくてたまらなかった。今夜はずっと一緒だから、時間を気にする事もなく、気侭に触れ合えるのだと思うと勝手に胸が熱くなる。
 いつもは送って行く時間が遅くならないようにと、彼女と繋がっている間も思い切り集中できず、時間を気にしていたけれど、今夜はそんな煩わしさも無いのだ。
 コンビニで必要な物を買いそろえて、俺たちは夜の帰り道を歩く。
 誰もいないのをいい事に、手なんか繋いでいた。

「嬉しいです」

 突然、無言だった彼女が口をきいた。

「力さんと朝まで一緒だなんて」

 その一言に、早く部屋に帰って抱き締めたくなって、俺はつい彼女の手を引いて足を速めた。鹿乃が、駆け足になっているのに気付いて、慌てて速度を落とす。俺が手をとっている限り転ばせはしないけれど、彼女は普段から危なっかしい。
 可愛い事を言うこいつが悪い、と責任転嫁を内心してみても、結局気遣いをついつい忘れそうになる俺に非があるのは解っているから口に出さない。急かす心を落ち着けているとまた彼女が話しかけた。

「星が綺麗ですね」

「え?ああ、そうだな。今夜は冷えるからな」

 星なんか、見ていなかった。言われてから夜空を見上げると、確かに、いつもよりも星の輝きが強いように見える。

「力さんの誕生日の牡羊座って、この季節じゃありませんでした?」

「そうなのか?」

「どこにあるんでしょうね」

「さあなあ。こんなに星があると、解らないな」

 俺の適当な答えに不満そうな表情もせず、鹿乃は微笑んだ。
 星は確かに綺麗だが、俺の心をとらえているものと比べると、今はあまり魅力的ではない。

 彼女に風呂をすすめて、俺は寝室の洗濯物を取り込みにかかる。あの子を引き止めるなら、もうちょっと普段から片付けておくんだったと後悔した。棚に洗濯物を押し込んで、彼女が着れるような服を探す。

「う~ん…」

 洗ったばかりの清潔な白いシャツ、ジャージ、パーカー。もっと気の利いた物は無いのかと思うが、男一人暮らしにお洒落な部屋着など持っている奴の方が珍しいだろう。鹿乃がシャワーを浴びているうちに部屋着を洗面所に置いておくと、数十分後、それを身に付けた彼女が出てきた。

 うん、デカイな…

 もちろん俺の服が、だ。
 彼女の胸元の寂しい膨らみがより強調されているようだった。それでも、白いシャツに透けて見える白い下着に俺は生唾を飲み込む。気付かれないように顔を反らすと、勘違いした鹿乃が

「ガッカリしないで下さいよ」

 と、勝手に落ち込んでいた。

「何も言ってないだろ」

「顔に書いてあります」

 嘘だ。俺の顔には絶対「抱きたい」の4文字しか書かれていないはずだ。気付いていないのならそれで結構だが。その4文字を口にしてしまう前に俺も風呂場へ向かった。
 機嫌の良さが自分でわかる。気付いたら鼻歌すら歌いながらシャワーを浴びていた。風呂から出ると、鹿乃が同じように鼻歌を歌いながら髪を梳かしている。

「わ」

 と俺の姿を振り返って歌うのを止めてしまった。髪を梳かす姿を見るのは初めてで、思わずどきりとする。男はどうして女の髪にこう惹かれるのだろうか。鼻歌を歌っている彼女の歌声は、なんだか優しくて、微かで、もし彼女が母親なら、気持ちのいい子守り歌を聞かせてくれそうだと思った。母親では困るのだが。

「聴いてました?」

「歌、得意なのか?」

「とんでもない」

「なに歌ってたんだ?」

「タイトルも知らない曲です。借りたCDに入ってて」

「なあ、ちょっとまた、歌ってくれよ」

「や、やですよお!下手だし…」

「今日は甘えていいって言ったじゃないか。お願いだ」

「…」

「無理強いはしないけど」

 彼女が本気で嫌なのなら諦めるが、ちょっとだけ我が侭を言ってみる。鹿乃が少し考えて、そして傍にあったドライアーを手にとった。

「…力さんの髪、濡れてます」

「ん?ああ、すぐ乾く」

「ドライアーかけてあげますから、かけながらなら、後ろで歌ってもいいです」

「じゃあ、頼む」

 あまり使わないドライアーがこんな所で役に立つとは思わなかった。鹿乃はコードをコンセントに射し込んで、俺の髪に十分な距離をとって温風をかけてくれた。
 風の合間に、優しい指が髪に絡み付いて、それだけで何だか気持ちよさに眠たくなる。その上、ドライアーの喧しい音に混じって彼女の小さな歌声が耳にとどいて、さらに眠気を誘うようだった。
 本人は下手だと言ったけれど、俺は彼女の歌声が好きだと思った。そりゃあ、音を外しているかもしれないけれど、元の曲を知らないし、善し悪しは解らないが、ただ単純に好きだった。
 J-popとか、ロックとか、そう言う物ではなく、なんとなくどこかで聴いたような単純で優しいメロディーだった。俺の短髪はあっという間に乾いて、彼女の歌はそこで終わってしまう。

「ありがとな」

「…聞こえました?」

「良く聞こえた」

 鹿乃は顔を赤くしてふいっと横を向いた。歌声を聞かれるのがそんなに恥ずかしい事だろうか。

「…私、一人だと、楽しいときすぐ鼻歌歌ちゃうんです。気をつけてたのにな」

「いいだろ、大声出す訳じゃないんだし」

「だって、浮かれてるみたい」

「俺だって、お前と今晩一緒だって思ったら浮かれて風呂で鼻歌歌ってた」

「え!…力さんのも聴きたい」

「あっはっは!お前の髪が乾いてなければよかったなあ」

「ず、ずるい…」

 悔しそうに自分の乾いた髪を弄る。

「次はお願いしますね?」

「そうだなあ。お前のもまた聴かせてくれたらな」

「笑わないでくれるなら」

「笑わないって。俺も歌は苦手だから、笑うなよ?」

 普段よくかむし、変な声をあげて驚いたり、音が震えていたりする彼女の声だが…まあ、そんな声も嫌いじゃないけれど、歌うとあまり彼女の声じゃないような、落ちついた印象があって、それはかなりほっとさせてくれた。

「お前の声、好きだ」

「ええ!」

 好きだと言った途端、この声だ。もう、笑ってしまう。

「褒めても何もでませんよ…?」

「嘘じゃない」

「…」

「俺のために、もう一曲。だめか?」

「…」

 お。このお願いの仕方は効いているようだ。鹿乃が迷っている。もう一押しだ。

「今日はほら、甘えていい日じゃないか」

「き、今日だけじゃなくて、いつでもいいんですよ」

「なら、頼む」

 鹿乃が恥ずかしいだろうと思って、後ろから抱きしめて顔を見ないようにした。彼女は、本当に小さな声で絶え絶えに歌いだす。声はちょっと擦れるし、時々止まるし、確かに上手じゃないけれど、でも俺は彼女の声が心地よくて、気持ちよくて、鹿乃を抱きながら後ろで船をこいだ。

「力さん?」

「ん…」

「眠いんですか?」

「…い、いや」

 いかん、本当に寝そうになった。折角彼女と一緒なのに、もう眠ってしまうのは勿体ない。

「寝るならベッドで寝て下さい」

「…一緒だろ?」

 眠くて気が緩んでいたし、鹿乃に完全に気を許していたし、俺はまったく甘えきっていた。彼女の柔らかい髪に顔を埋めると、俺が普段使っているシャンプーと同じ匂いがして、それだけなのに、体がカッと熱くなる。彼女の方も髪の合間から見える耳が赤い。食んでしまいたい。

「ひゃん!」

 思ったら行動にしていて、赤い耳の先を唇で噛んだ。思ったよりもそそる声で彼女が叫ぶから、どきりする。
 思えば俺は彼この子の嬌声も好きだった。この声で鳴かれると興奮するし、この声で歌われると眠くなる。不思議だ。そんな事を思いながら、彼女の声がもっと聴きたくなって、俺は恋人を抱き上げて寝室へ向かう。

 そこで幾度も紡がれる意味の無い歌に酔いながら、その音を呑むように、何度も何度も口づけた。

Fin