下手な恋愛小説のように
「君が居なければ、僕は自分の涙で溺れてしまうよ…」
ああ、なんて詩的で甘い愛の言葉。
私は目を閉じて、この小説の主人公とヒロインを思い描こうとする。
「私もよ。貴方が消えてしまったら、悲しみに耐えられず死んでしまうわ」
「何を読んでるんだ」
「ぎゃあ!!」
妄想の最中、語り合う恋人たちの間を縫って、力さんが声をかけてきた。私の色気のない叫び声にしばらくお腹を抱えて笑ったあと、改めて本を覗き込んでくる。私はあわててたが、それを隠す暇は無かった。
「最近話題の恋愛小説か」
「こ、これは…」
恋愛小説を読んでいることの恥ずかしさに本を力さんから遠ざける。あまり意味はないのだが。
「ほら、話題だし…力さんは、読みました?」
「あまりこの手の本は興味ないな」
力さんは案外何でも読むたちだ。だが、恋愛小説は、授業の題材で使うもの以外は娯楽として手にしないのだという。
女の子には、こんなに夢中になれる娯楽なのに、男の人からすると興味ないのかな?
「嫌いですか?」
「嫌いじゃないぞ。お前は好きか?」
「えっと…わりと…」
「わりと?」
「…結構、好きです」
そして力さんは、また笑っていた。この人は何をしていても楽しそうで、本気で羨ましい。
「ちょっと貸してみろ」
本を私から取り上げて、パラパラめくる。これは若い女の子向けの甘い話が詰まっているのだ。とても恥ずかしい。
「なるほどな」
そう言って本を私に手渡した。なにが「なるほど」なんだろう。
わかっている。力さんは、小説の男性みたいに甘い言葉をいったりしない。とはいえ、この人の飾らない愛情の言葉はとても嬉しい。
でも、私にだって憧れはある。それとこれとは別なのだ。
「こういう男がいいのか」
話題を変えてくれない彼はやっぱり少し意地が悪い。本人はただの好奇心なのだろうけれども。
「…あんまり苛めないでください」
「…」
恥ずかしいから…という思いを込めてお願いしたつもりだ。だが、力さんは黙って本から私に視線を移した。
「お前の困った顔が可愛いから、つい苛めたくなる…」
「!!!!」
行きなり聞こえた台詞に驚いて固まってしまう。じっとこちらを見つめる力さん。私の顔はどんどん熱くなって。それでも力さんから目を反らせられなかった。彼の真剣な顔が、ゆっくりと歪み、そして
「ぷは!!すまん、照れる!」
「………」
いつもの笑顔に戻っていた。
私はまたからかわれたようだ。ああ、そういえば、同じ台詞を小説の主人公が言っていた。それを引用したんだ。
なあんだ……
「…………」
何となくガッカリしてしまって、言葉を失う。そんな私の様子に、力さんは笑の残る口元を押さえて顔を覗き込んできた。
「すまん。おい、怒ったのか?」
怒ったというか、喜んだ自分がちょっと惨めで、落ち込んでいた。格好悪さに隠れたい気分だ。
「悪かった」
彼の指が、まるで私の涙を拭う様に目尻を撫でる。
「泣いてません」
「泣きそうだ」
そう言って、私を抱きしめた。もう、それだけで私の機嫌は治ってしまう。
「少しぐらい、悪ふざけした恋人を嗜めたってバチは当たらんぞ」
つん、と頬を指でつつかれる。なぜかそれだけなのにきゅうっと胸が苦しくなった。私、子供みたい…。
「別の男の台詞で顔を赤くするのが気に食わなかった」
「え?!」
「ときめいたのか?心奪われたか?」
「あの…」
「こんな男なら機嫌直してくれるか?」
そう言ってテーブルに置いた本をまた開いた。
「面白くない」
「…」
彼が面白くないと言って本をパタンと閉じると、そんな面白くない本でときめいている自分が面白味も無い人間のような気がしてしまう。
どうせ、私はユーモアのセンスも無い人間ですよ。そんなふうに嘯いて言えるのは、心の中だけだ。
機嫌直せと言いながら自分の方が不機嫌そうな力さんの機嫌を、今度は私がとるばんだった。
「ごめんなさい、面白くないですよね」
そういって本を彼の手から奪おうとする。
「ん?ああ、違うぞ」
「?」
「面白くないのは、その…お前が本の男に夢中になっているからだ」
「…」
それは、ちょっとだけ、嫉妬されているということなのだろうか。だったら嬉し いけれど…。やっぱり機嫌の悪そうな彼に私もどう返事をしていいのやらわからない。
「この男のどこがいいんだ」
「えっ!そ、そんなこと聞かないでください…!」
ああ、恥ずかしい…!私の顔が熱くなったのを彼は敏感に感じ取ったようで、なぜか力さんは怪訝そうな顔で驚いた。
「何で照れる?!」
「照れますよ!」
「好きなのか?!」
「そりゃあ憧れはありますけど」
こういうシチュエーションが好きな女の子は多い筈だ。だからこの本が若い女性の間でベストセラーとなっているのじゃないか。
「…どこがいいんだ?」
そう呟きながら本を捲り、聞いて来る。なんだか、さっきとは声のトーンが少しだけ違う気がした。
時々、この人に逆らってはいけないような気になるのはどうしてだろう。逆らう気も無いのだけれど。
「一途なところ…」
「へえ………それから?」
「そ、それから…情熱的なところ」
「…他には?」
「………」
尋問されているような緊迫感。ソファの背もたれに体を預けてリラックスしているような彼とは対照的に、私はなぜか膝に置いた拳を握りながら緊張していた。本に視線を落として節目になっている彼の瞼と睫毛を横目に見ながら吐露を続ける。
「…好きな人が居なくなったら、自分の涙で溺れてしまうんですって」
「ずいぶんロマンチストだな」
「そ、それだけなんです…。別に力さんと比較してる訳じゃないんですからね」
「…ふぅん」
「私には力さんが一番なんですから…」
「知ってる」
「あ、はい…」
私の熱の籠った告白があっさりスルーされる悲しみ。彼にわかるのだろうか。わからないだろうな。
「自分の涙で溺れる…か…」
恥ずかしくて目をつむる。もう、いいじゃないか。今日の彼は何だかいつもより意地悪だ。
「……力さんは」
「ん…?」
「きっと、私が消えても、幸せに生きていけると思うんです。強い人だから。でも、私はこの主人公と同じ」
「同じ?男の方に感情移入してたのか?」
「両方…かな…。この主人公。身を引こうとしたけど、諦められなくて、追いかけて。欲深くて、ちょっとみっともないところが、私みたいだなって思いません?」
私は相変わらず顔を膝に落としていたけれど、彼の意地悪な気配が何となく消えたのを感じた。
「……お前なら」
ぼそりと聞こえた声は、いつもの凛々しさなんかどこにも無くて、意地けているような拗ねているような、そんな子供っぽい声だった。
「俺が断ったら追いかけて来ないだろ」
「え?」
「聞き分けのいいお前なら、俺が本当に拒絶したら身を引くはずだ」
「……」
私はそれを何度もシュミレーションしたはずだった。数年前の私にとって彼に拒まれる事は簡単にあり得る未来だったのだ。
「そして、別の男と一緒になる」
「それは……」
私も彼も黙ってしまった。
小説の外…つまり現実の読者は小説の中の二人が両思いである事が分かっているから「もっと求め合ってもいいのに」と思ってしまうけれど、現実は違う。相手がどこまで自分を想っているのか、相手の心を覗く能力を持っていない限り言葉や態度に示されなければ知る由が無い。そして、自分の想いが一方的だったときの空しさは避けたい物だ。
「別の男と一緒になる」と言った力さんの責めるような言葉は、私の「私が消えても、幸せに生きていける」と責めたような言葉と対になっている。私たちは物語の男女と一緒。でも、この物語の主人公は、そんな空しさを受け止めてもいいという勇気で恋人に言葉を投げかける。だから甘く響くのだろうか。
だったら、今ぐらい
「溺れても、いいかな…」
「え?」
「私は、力さんが大好きで、他の男の人の事なんか考えてる余裕、無いんです」
力さんが、少しだけ目を見開いた。
「だからもし、貴方に捨てられても、他の男の人と一緒になる事なんて、今の私には考えられません」
未来の事は誰にも分からない。本当に、こんなに大好きな人と別れる事があったら、その先、存在も知らない別の男性と愛し合う事が出来るかもしれないけれ ども、今それは私の中には全く”無い”ものなのだ。可能性の一つとして彼が提示し、可能性としてあり得る事ではあるけれども、可能性の話をしたらきりがないし、私はやっぱり彼を想って泣いて、思い出を胸に生きて行こうとするだろう。でも出来るなら、ずっと続く限り彼の側に居たいと思う。
この小説の主人公の様に、願いや愛や希望を口にしなければ。
「やっぱり、力さんが居なかったら、私は自分の涙で溺れて死んでしまいます」
「……そんなもんか」
力さんの気の抜けた言葉に私は苦笑いした。そして彼も笑った。
「なあ、恋人同士の会話って一見大げさに見えるけど、俺は揶揄としては的確だと思うんだ」
「?」
「お前は俺を強いと言うけれど。俺だってお前が居 なくなったら”自分の涙で溺れて死ぬ”ぐらい悲しい」
「………」
分けも無く涙が流れてきた。やっぱり溺れて死ぬのは私の方だ。
「おい…」
と驚いた力さんは、私の涙を指で拭ってくれた。
「言っちまうけど、俺はそんな出来た人間じゃないから本心では求められたいし、一人の女性からぐらいは、強く愛されたい。その1人の女性ってのはそりゃあ、自分の好きな女なら最高だ」
「…え…?」
「お前の事だぞ」
さらりと言ってのける彼の顔は余裕なのだろうと思ってちらりと除くと、そうでも無いらしい、案外照れ臭そうなものだった。
「勿論そんな我が侭を言うからには、俺はお前の愛を全部受け止める。でも逆に、俺の愛を全部受け入れてもらいたい」
「それって、じゃあ、私、思いっきり好きって伝えても良いってことですか?」
力さんは、私の言葉を聞いて声を上げて笑った。こっちは真剣なのに…。
「いいのか?俺の愛はお前が思うよりずっと苛烈だぞ」
「ええっ?!」
「なんで驚く」
力さんは私を強く抱きしめた。いきなりの包容にドキドキする。
「俺を求めて泣けば良い。ちゃんと抱きしめてやる。そして、俺がお前を求めたら、笑って、拒まず、抱きしめさせてくれ」
「拒んだ事なんか無いのに」
「そうだったな。まあ、つまりだ。口にすると煩わしいし、気恥ずかしいし、大げさに聞こえちまうからあまり言えないけど、俺もお前も相手に対して暑苦しい恋慕を抱いているんだ。そうだろ?」
「私だけじゃなくて、力さんも?」
「ああ、見ろ。俺たちは似た者同士だ」
「…嬉しい」
「そうか」
抱き合っていると、力さんから微笑んでいる気配が消えて、私を真剣に、じっと抱きしめられているのを感じる。こっちも何も言えずただ黙って抱き返した。
「お前の前から消えたりしない。約束する」
「優しいんですね」
「そうじゃない。お前はその代償に、俺に払う物が有る」
「何でも」
「お前も約束しろ。俺の側にいると」
「約束します」
お互い、真剣だ。それでも、取引のような約束が終わるとふっと空気が緩み、微笑みあう。
「下手な恋愛小説みたいな台詞を言わされた気がする」
「私、どんな綺麗な言葉よりも、下手な恋愛小説みたいな台詞でも、力さんがくれる言葉が一番嬉しいです」
彼はとても優しい瞳で私を見下ろしていた。そして本当に、恋愛小説によくあるワンシーンのように、私にそっと口付てくれた。
fin