てのひら会話 -Bambi Side-

小説
甘め
迫バン

同人誌「君にたった一輪を」の続きっぽくなりましたが未読でも読めます。

 
 
 

~ てのひら会話 -Bambi Side- ~

 
 
 

 青い光ー水面から注ぐ光が水槽越しに館内に居る来館者に降り注ぐ。

 子供連れの家族やカップルや、外国人観光客がお互いに歓談しながら優雅に泳ぐ魚を眺めて歩いていた。
 水族館デート。定番だ。特別な事等無い。でも、私の心境は穏やかではない。
 この人とのデートはこれで何度目か…思い出せない程してきた。それなのに、未だに緊張してしまう。

「見てみろ、餌食ってるぞ!」

「可愛いですね!」

 水槽を覗くと水面にぷかぷか浮いているレタスを器用に口に運ぶマナティの姿が見られた。

「間抜けっぽい顔してるな」

 そう言って私に無邪気に笑いかける姿に胸をぎゅうっと締め付けられる。こんな少年のような表情にずっと憧れていた。それだけでも大変な事なのに、その表情の中に感じる瞳の熱に、どうしても動揺せずにいられない。
 こんな視線を送ってくれるようになったのはつい最近だった。その事を思い出すと顔が熱くなる。

― 「貴女の事が好きです。俺の恋人になってください」

   おかしいと思われるかもしれない。だって私たちは既に恋人同士だったのだから。でもそれは関係だけだで、先生はやっぱり私を生徒としてしか見れなくて、そんな正直な気持ちを打ち明けて、その上でもう一度最初からつき合おうと言ってくれた。
 私に恋しているとも言ってくれた。
 熱い体で抱きしめてくれた。

 昨日の事のように思い出す。何度も回想しては、それについて思い耽ってしまう。
 私と先生は、私の何度目かの告白によって成り立っているカップルだった。もちろんその度に振られていたけど、1年程前に私の気持ちを快く受け入れてくれた。
 この人があの時も今も、どういう心境かは、私には想像しか出来ないけれど、同情とかそう言うもので誰かと付き合うような人ではないと思っている。少しだけでも私を女の子としてみてくれているのかもしれないし、単に私に猶予を与えてくれただけかもしれなかった。
 でもはっきり感じていたのは、彼にとって私がいつまでたっても”生徒”だったということだ。それに、彼は私に不釣り合いな程素敵な男性で、こうしてお付き合いしているのがなんだか作り話のように思える事が未だにあった。

「ぼーっとしてどうした。お前も間抜け面になってるぞ」

「…っえ!」

 豪快に笑われて、そうして現実に引き戻された。
 どんな締まりのない顔をしていたのだろう。水槽のガラスに映る自分を見た。どうして私はかっこ良く振る舞えないのだろう…。あの人が楽しそうならそれでいいかもしれないけど、恋人としてどうなんだろう。もう私も20代なのだし、もっと彼に相応しい、大人の女性のように振る舞えないものか。
 ふっと彼に視線を戻すと、先生は真っ直ぐにこちらを見つめて、「えっと…」という前置きをしてから、私にだけ聞こえる声で

「お前は可愛いぞ」

としっかり口にした。あまりにしっかり言われて聞き違いかどうか疑う余裕さえ与えられなかった。混乱して体は動かないのに、顔に血が集中しているのがわかる。普段そんな事絶対に言ってくれないし、実際言われた事は無いのに。なんでこんな何でもない場所で、何でも無い時に言うのだろう。

「間抜け面です」

「それは冗談だって」

 冷静になってみると、彼なりのフォローだっということに気付く。冗談かどうかなんてわかっているし、冗談を言って笑っているこの人を見ているのは好きだ。それに、自分がちょっと抜けてる顔しているのも知っている。可愛いと言われるような容姿でもない。まあ、普通だ。と少しだけ寂しい自己分析をしてみた。
 少し困ったような顔をして私を気遣う先生に申し訳なくて、謝った。さらに眉を寄せられて、いよいよいたたまれなくなる。

「女心が解ってないってよく言われる。だから、知らない間に傷付けていたらすまん」

「あ、別に傷付いた訳じゃなくて…」

「そうか? すぐ1人で歩いて恋人を置いていくし、喜ばれる言葉なんか解らないし、記念日は忘れるし。そういえば、前の彼女にはよくそれで怒られ…」

 はっとして口を噤む先生。彼の卒業アルバムから出てきた可愛い女性の写真を思い出す。もうあの時程苦しくはないけど、少しだけ苦い思いだった。解ってる。先生の方が私よりそういう経験が多いのも、歳の差があるならしょうがない。その事に多少の嫉妬はあるけど、でも今は…。

「今は私が先生の恋人ですから」

 そうですよね?と不安半分で問いかけた。

「そうだ」

 間髪入れずにあっさり答えが帰ってくる。こういうところも、ずるいなと思った。少しだけ落ち込んだ私の気持ちがまた有頂天に飛んでいきそうだったから。
 明るい話をしようと思って、おどけた声を作った。

「確かに先生って、足が速くてすぐ置いてかれそうになります」

「う…気を付ける」

「あ、でも!ちゃんと戻ってきてくれるから…嬉しいです」

「本当か?」

「さっきの言葉も、すごく…ドキドキしました」

「嬉しくて?」

「嬉しくて」

 そうして、やっと満足そうに笑う彼。でも照れくさそうだった。私は顔がとても熱くて、視界がぼやけていて、なんだかあの人がいつもより輝いているように見えた。錯覚だと解っていても、構わなかった。あの人はいつも輝いている。
 そのまま、魚を眺めながら何でも無い会話をする。深海魚の部屋に入ると、あの人は小さく「あ」っと漏らして私の手を取ってくれた。

「暗いからな…」

「はい」

 そう言ってぎこちなく手を繋いだ。手の出し方、不自然だったかな。大丈夫だったかな。そんなどうでも良い事が気になってしょうがない。それに、緊張から私の手は汗ばんで、それはきっと先生に気付かれていて、とても恥ずかしかった。
 どぎまぎして、なんだかおかしくなって、動悸が止まぬまま震える声で笑った。

「どうした」

「手、汗かいちゃって」

「あっはは!俺も!」

「え、先生も?」

 その言葉は意外で、少しだけ期待した。気付かなかったけど、握った手は2人とも少し汗ばんでいるようだった。それは、先生も私みたいに、こうして手を繋ぐ事を意識してくれているということなんだろうか。いつもみたいに何の気なしに繋ぐんじゃなくて、この行為を特別に思ってくれているのだろうか。
 そうだったらどんなに嬉しいだろう。舞い上がってしまう。

「緊張してる。初めてじゃないのにな。デート」

「変ですね」

「変だな」

 魚を眺めることも忘れて、私は意識を手に集中していた。熱くて、大きくて、優しいあの人の掌。触れる指。ここに自分の指を絡めたら、恋人つなぎしてくれるかな。まだ早いかな。もしできたら嬉しくて、死んでしまうかもしれないとも思った。

「この水槽、蟹が隠れてるんだと。見つけたか?」

 急に話しかけられてはっとする。
 目の前には照明を落とした水槽に岩や植物が繁っているだけに見えた。
 ふと、岩の一部が動くのが見えて、そこから蟹の形が浮き上がった。

「そこ、動きました!」

 私が指を指した方をあの人の視線が追う。彼も見つけたようだった。

「居た居た、凄いな森瀬!」

 暗がりの微かな館内の光を集めた瞳がきらきらと輝いていてこちらに向けられていた。その光を追って吸い寄せられるように、目が離せなかった。

「折角水族館に来たのに、俺の事ばかり見てていいのか?」

 ぼうっとする頭で言われた事を考えていた。つれない彼の瞳はそっぽを向いてしまっている。途端に、自分が彼の方ばかり見つめている事に気付いてはっと手を離した。先生は苦笑いしながら私の髪をぐしゃりと撫で、歩き出した。
 あんなに近かったあの人は今数歩先に居る。自分の右手を見つめながら離したことを後悔した。もう一度繋いで歩きたいのに。そう思ってるとまた「あ」っと声が聞こえて、私の手は簡単に攫われ、また彼の手に収まった。

「こら、離す奴があるか!」

 ああ、自分が今とてもニヤけているのが解る。恥ずかしいし、格好悪い。こんなに心が揺れていて、どれだけこの人が好きなんだろうって、自分でも呆れてしまう。この人もきっと呆れてる。
 暗がりの中をそっと歩く。きっとこういう場所じゃないと2人でゆっくり歩けないかもしれないと思うと水族館がとても良い場所に思えてきた。照明のカラフルな水槽や優雅なクラゲに目を奪われつつも手を離さないでいてくれる先生。
 夢みたい。そう呟くと。ああ、と同意の返事が返ってきた。魚の事じゃないけど。でも暫くはそう思われていても良いと思った。

Fin