忘れられない -Bambi Side-

小説
微エロ
迫バン

 いつもの朝。

 
 
 

 に、なるはずだった。

 
 
 

 目を覚まして、ぼおっと天井を見る。真っ暗だ。でも目が慣れていく。そして直に視覚的、感覚的な違和感を覚えて違和感を整理するために頭を働かせた。
 一番近い記憶をたぐり寄せようとするが上手くいかない。だんだんと覚醒してくる意識がまず始めに、なぜ自分は裸なのか?という疑問を提示する。それに答えを出せないまま布団の中の自分の体をまさぐった。

「?」

 すぐ隣に別の熱があるのに気付づいて、その途端心臓は打たれたように脈打つ。
 ゆっくり隣に顔を向けると、男性の露になった背中がこちらに向けられていた。
 悲鳴が出かかってヒュッと喉が鳴る。

 瞬時に、自分がとんでもない間違いを犯したのではないかという恐怖で体がすくみ上がった。
 今すぐ逃げなければならないのに体が思うように動かない。
 大好きな担任の姿が頭を過って泣きそうになる。彼がこれを知ったら悲しむだろう。どことなく彼に似ている後ろ姿の男。
 似ているから?慰めて欲しくて?昨日、何かの間違いで?この男に犯されてしまったのだろうか?!全然思い出せない…。

 男から逃げるように後ずさると、ベッドからシーツごと滑り落ち、床に体を打ち付けた。でも痛がっている場合ではない。この物音でぴくりと肩を振るわせて男が起きた。

「なんだ?どうした?」

 いよいよ逃げられない。そう思って恐怖で涙がどっと溢れだす。

「お願い…許して…!」

 男の手が伸びてくる気配。

 
 やだ。

 
 

 やだ…!

 
 
 

 先生、助けて!

 
 
 

「来ないで!」

 
 
「えっ…」

 拒絶の叫びにあっさりと止まる男の手。一瞬緩んだ恐怖心で少しばかり頭が思考能力を取り戻す。

 はて?

 聞き覚えがある声じゃなかったか?

 聞き覚えがあるどころか、この声は私の想い人の声ではないか?
 はっと顔を上げると見知った顔に、安堵よりも驚きが隠せなかった。私はあんぐり口を開けて言葉を紡ごうとするが上手くいかない。

「セ…せ…先…?!」

 いや、とても良く似ている…が、別人だろうか。彼よりも、もう少し歳を食ったような男のようだった。それでも非常に良く似ていた。

「誰?!」

「……何、言ってんだ?」

 声すら、似ていた。いや、これはやっぱり本人?私の頭はまだ混乱している。

「やっぱり…先生…?」

「なんだ、懐かしい呼び方して」

「え!先生?!え!?私、なんで先生と?!ここはどこです?!」

「あ?ここはお前の家だろ」

「ち、違いますよ!先生のお家ですか?」

「俺の家でもあるが」

「どうして私が先生のお家に?!」

「お前の家だからだ!」

 少しイラついたような先生とわけのわからない問答に固まる。そして自分の格好を再確認して、完全にパニックになった。
 私は、わあん!と子供みたいに声を上げて泣いた。

「わ!おい!落ち着け」

「先生に、私の裸見られた!」

 寸胴だし、胸は小さいし、綺麗じゃないのに。私の体。心の準備だってしてないのに。…っていうか、いろいろ段階があるのに!
 いや待って。どうして先生と同じベッドで寝ているんだ。そこからもうおかしいじゃないか。お酒に酔って先生の自宅に押し掛けちゃったの?!そもそもまだ私お酒飲める年齢じゃないし飲んだ覚えも無い。お酒なにそれ美味しいの??
 混乱して泣き喚く私を見下ろして、先生は呆れた声で

「今更だろそんなの」

 と言った。

 今更って何?!
 また泣き出す私に先生がオロオロしながら様子を伺っている。困らせてる。でもそれを気遣う余裕なんか無かった。

「お前…もしかして…」

「…?」

 
 
 
 ・ ・ ・
 
 
 

「記憶喪失ぅ!?」

 先生の言葉をオウム返しに喚く。
 ベッドに散乱していた自分のものと思われる服を着込んだ私をリビングへ通し、水を一杯差しながら、先生は「記憶喪失かもしれない」と言った。

「お前、今の歳は?」

「そ、そんなの先生も知ってるじゃないですか。この前卒業したばかりで、18です」

「いいや違う。お前は今年23になる」

「う、嘘です…!」

「そこのカレンダーを見ろ」

 先生が指差す方の壁に、書き込みタイプのカレンダーが飾ってあった。月や日はどうでもいい。問題は、年だ。大きな文字で「2016」と書かれている。おかしい。
 絶句している私に先生が後ろから気遣うような言葉をかけたが、その内容は半ば絶望的だった。

「どうやら5年ほど記憶が抜けているようだな。頭でもぶつけたか?」

「記憶が無いもんで思い当たりもありません…」

「そうだな…」

 先生が、私の頭をそっと撫でる。いつも学校でするみたいにくしゃっと撫でるのではなく、その手つきは優しすぎる程優しかった。
 こんな風に、壊れ物みたいに先生に撫でられていると本気で夢を見ている気さえする。夢じゃないか?

「瘤は無いようだな。痛くないか?」

「だ、だ、大丈夫…あの、ここ、私の家なんですよね?」

「ああ、だから寛いで大丈夫だぞ。トイレはリビング出て右だ」

「先生と一緒に住んでるんですか?」

「あー…うん…」

 自分の左手の薬指に嵌っているリングが、先ほどからずっと気になっていた。先生の指にも、シルバーのそれが光っている。アクセサリーを付けている所なんか見た事無い。
 リングを触りながら先生の顔色をうかがうと照れたように苦笑いをされた。そんな表情、見た事無い…。私は彼に見とれて浮かれていたけれど、さらりと

「この前結婚した」

 と宣告され、浮かれるどころか心臓が飛びそうになった。「グッジョブ私」とでも思えば良いのか。いや非常にグッジョブだ。でも、抜け落ちた5年に何があったのだろう。

「か…確認しますけど…誰と誰が?」

「お前と俺が」

 こんな都合の良いことあるのか。目が覚めたら好きな人のお嫁さんになっていたなんて。いや、先生の予想では記憶喪失らしいのでそれが正しければ「目が覚めたら」という表現が適切かどうか不明である。
 それに、明確な感覚は分からないが、体がどうも「昨日いたしたぞ!」と訴えているようだった。まず、間違いない。私、昨日、先生とえっちしてたんだ!
 頭が真っ白になりそうだった。そして、この人と過ごした空白の数年を、私は忘れてしまったのだという事がわかって、泣きたくなった。

「何で忘れちゃっただろ…やだな…」

「…」

「先生とどんな風にお付き合いして、結婚して…素敵な事一杯だっただろうに、なんで忘れちゃったのかな…」

 泣きそうな声に先生が私の側に寄ってきて腰を下ろす。背中に当てられた手の暖かさが心強かった。

「大丈夫だぞ、記憶がなくなっても、思い出はまた作ればいい。お前が望むなら、もう一回プロポーズする!」

「…」

 こんな事、言ってくれるんだ。この人は恋人にこんな風に優しく慰めるんだ。それが全部全部、私の物なんだ。忘れた記憶が悲しいのと、事実が嬉しいのとで、私は変な笑顔を返した。

 そっと背中に触れていた先生の手が肩に触れる。抱き締められる!と一瞬期待したけれど、その手はすっと私の肩から離れてしまった。

 小さくため息をついた彼の気持ちが酌めなくて、首を傾げる。

「暫くお前に触れられないと思うと切ないものがあるな」

「え!ど、どうして?触れちゃ、ダメなんですか?」

「こういう物は過程がある。男はいいかもしれないが女はそういうの大事だろ?」

「そ、それは…」

「今のお前は体だけは大人でも、心は俺と付き合う前の子供だ」

 わかっている。彼は大人だ。子供は相手に出来ないのだろう。だから、大人になったら…二十歳になったら先生に告白しようと思って卒業したんじゃないか。

「嫌という訳じゃないぞ!お前は忘れたかもしれないが、俺だってお前に惚れてるから結婚したんだ。惚れた女が傍に居て手も出せないなんて男にしたら生き地獄みたいなもんなんだぞ?」

「ええっ!」

(せ、先生が私の事を…!?)

 やっぱり夢じゃないだろうか。ああ、本当に、なぜ忘れてしまったんだろう。記憶を失ってしまったばっかりに、先生に触れる事も出来ないなんて。

「私だって、大好きな先生と、け、結婚もしてるのに、手も繋げないなんて…!」

「て、手ぐらい良いと思うが」

「いいんですか!?」

「いや!ちょっと待て!」

「えっ」

「手、繋いだら、抱き締めたくなるだろ」

「……」

 喜んだら良いのか悲しんだら良いのか分からず混乱する。返す言葉も思いつかない。どうにもならないこの空気が数秒の沈黙を作った。先生の言う事はもっともだ。それに、私は一度卒業する時に覚悟した筈だった。

「大人になるまで待とうって決めてたのに」

「…?」

「二十歳になったら、真っ先に先生に告白しにいこうって…先生に迷惑かけないように…ちゃんと大人になろうって」

「鹿乃…」

 不意に呼ばれた自分の名前にどきりとする。とても自然に、言い慣れたような音だった。こんな風に名前を呼ばれる事が日常だったのだろう。

「…私の名前」

「お前だって俺を名で呼ぶ」

 先生の名前。力…さん? 呼んでも良いのかな。慣れ慣れしくないかな。

「…力さん」

 口にするとすんなりそれは出てきた。言ってからとても恥ずかしくなったけれど、でもそれは私の口からも言い慣れたように出てきた。体は所々覚えているらしい。

「……昔とは違うんだ」

「?」

「教師だった頃みたいにできないんだぞ。その指輪は、お前が俺の物である証だ」

「……」

 先生が、先生が…

 なんだか、くらくらしてきた…。先生のものなんだ。先生の奥さんなんだ。髪の毛からつま先まで全部この人にあげたんだ。嬉しい。でも、だから早く思い出したい。

「取り合えず、医者にいこうな。まず風呂に入れ。その…昨夜、汚しちまったから」

 先生が、照れくさそうにそう言うのを、やっぱり夢心地に感じていた。

 お互い身を清め、改めて時計を確認すると、日の出の気配もない早朝だった。寝起きは混乱していて先生も私も目が覚めてしまっていたが、二人とも欠伸をしていていた。体は正直だ。睡眠をとっていない事を理解している。しかも聴けば夜遅くまで…その…仲良く…していたらしいので、病院が開く時間までもう少し眠る事に決めた。医者へ行く算段がついて安心すると疲れが出て来る。

「朝になったら起こすから、寝てろ」

 そう言って、リビングのソファーに寝転がる先生。

「え…べ、ベッド、使って良いんですか?」

「おお、お前のベッドだ」

「…」

 先生をソファーに寝かせて自分はベッドなんて気が引けるけれども男性からしたら女をさしおいて自分がベッドというわけにもいかないのだろう。
 もちろん私には下心があるから一緒に寝てくれたらそれはそれで良いのだけれど…いや恥ずかしくて寝られないかもしれないけれど、先生だって私の事を今は子供だと思っているわけだし、そうもいかないのかな…。

「おやすみなさい」

 そういって後ろ髪を引かれる思いでベッドへ潜り込む。ベッドからふわりと、自分じゃない他人の匂いがして、いきなり胸を掴まれたように切なくなった。浜辺で私が足を挫いた時に、負ぶさられた時に感じた匂い。先生の匂いだ。ベッドに強く残っているそれを、私は一杯吸い込んだ。
 ただそれだけで嬉しくなってしまう。それに、隣の部屋の彼の事が気になって仕方なかった。

「ち…力さん…」

 小さな声で名前を言ってみる。それだけで恥ずかしいやら嬉しいやら、一人でドキドキする。昨日、ここであの人に抱かれたんだ。私、幸せだったんだろうな。
 そんな事を考えながら私は眠いのに中々寝付けないでいた。見慣れない部屋と言うのもある。壁にかかった時計の小さな針の音が変に気を紛らわす。

「先生は、寝ちゃったかな…」

 そっとドアを開けて、隙間からリビングを覗いた。テーブルの先のソファーで眠る先生がドアを開く音に気づいたのかもぞりと動く。

「眠れないのか?」

 と毛布から顔を出す先生の声は優しかった。睡眠を妨げて申し訳ない気持ちと心細い気持ちで「ごめんなさい」と呟く。私の声に気持ちが乗っていたのだろう。先生は体を起こして手招きした。それに甘えて寝室を出る。

「不安なのか?」

 そう言いながら、テーブルの上の小さなアロマディフューザーのライトをつける。それでもその優しい光だけで、リビングは相変わらず暗かった。

「大丈夫だぞ」

 ふんわり笑う彼。眠いのだろう。でも、私はその表情にまた驚く。

「そんな顔もするんですね…」

 照れたように顔を反らされる。わあ…。照れてる顔、今日2度目だ。私はこんな彼をいつも見ているのか。

「お前にだから見せてるんだぞ」

「…」

 こんな特別な事を言われるなんて夢にも思っていなかった。私だから…奥さんだから見せる先生の顔が、私に向けられている。

「ああ、いきなりこんな事言って、困るよな」

 戸惑っている私の表情を困っていると解釈されて顔を思い切り左右に振る。その様子が面白いのか、先生は軽く笑った。

「そうだな。お前は俺の事、大好きだもんな」

「…」

 バレてる。当たり前か。結婚しても、ずっと先生が好きで、それが顔に出ていたのだろう。そう思うとなんだかかっこつかないやら照れくさいやら。私は5年経っても成長していない気がした。

「俺も、お前が大好きだ」

「!!」

 体が飛び上がりそうになる。私だって、今の言葉が生徒に対する「大好き」じゃ無い事ぐらいすぐにわかった。

「そんな驚くなよ。ちゃんと言うようにしてるんだ。俺が言葉足らずで泣かせた事もあるから」

「そ、そうなんですか…」

「お前が思ってる程、俺は良い男じゃないってことだ」

 苦いものでも噛んだような顔をして顔をランプに向ける先生。私、この人に何をしてしまったんだろう。言葉足らずという彼の言う通り、彼の言葉が私には少なくて、一人で勝手に悲しんでいたのだろうか。それは、なんというか…申し訳ない…。あまり良い思い出じゃないようだ。喧嘩の思いでなんて良い思い出じゃないことは確かかもしれないが。

「嫌な思い出ですか?」

「え…そ、そんなことはない!」

「え?」

「そりゃあお前を泣かせた事は後悔してる。それでも、お前と過ごした時間は全部大事だ」

「……」

「……」

 少しだけ、年を取った先生の顔。でも、真剣な瞳は何も変わってはいない。

「そんな大事なものを、私は失くしちゃったんですね…」

 先生が、私の背をぽん…と優しく叩く。

「なあ、少し、思うところがあるんだ」

「何ですか?」

「もしかして、何かお前が、忘れたい事があって、それで記憶が消えちまったんじゃないか」

「え?!」

「俺と過ごした数年、お前にとって辛い思い出がいくつかあって、自己防衛で脳が忘れちまったんじゃないか。もしそうなら…」

「……」

「いや、憶測だ。すまん。変な事言ったな」

「……」

 もしそれが本当だとしたら…?でも私にはそれを知る術が無い。

 先生を大好きだった頃の自分に戻りたかったから、何もかも忘れてしまったんじゃないだろうか。

 すぐに、いや違うのだ、と思う。本当に辛いのなら、好きだった頃に戻ろうなんて思うだろうか。結婚しようと思うだろうか? そこは、自分を信じていいだろうか。結婚指輪を仕舞もせずはめているし、見たところ私は健康そうだし、病んで体をやせ細らせていたようでもない。衣食住も不自由していないようだし、何より彼がとても優しい事がわかる。愛されていると実感できる。

「多分、違うと思います」

「ならいいな」

「早く思い出したいです。そして、そうじゃないって言いたい」

「まあ、焦るな」

「だって…記憶が無かったら私、力さんの奥さんじゃ無いんですよね?」

「……」

「変な事言ってご免なさい」

 先生は黙って私を見ていたけれど、私はその視線に何も返せないでいた。そう、このまま記憶が戻らなかったら、またやり直し。きっと彼はまた私にプロポーズしてくれるだろう。思い出だってたくさん作ってくれる。それでも、出来ることなら思い出したい。私の心が時間を取り戻すまでこの人にこんな切ない顔をさせていたくなかった。先生が、はっとして口を開く。

「そうだよな…」

「…?」

「お前に記憶が無くったってお前はお前だ」

「…」

「別人になった訳じゃないし、俺はお前の記憶と結婚したんじゃない」

「……」

「お前はもう俺の嫁さんだ」

 彼が私のリングをはめた手を取った。いきなりの事で緊張する。そして、さっきまであんなに拒んでいたのに、あっさりと、私は彼の腕に閉じ込められていた。
 その抱擁は力強くて、どこか優しい。先生はじっと黙って、ただ私の髪を撫で、何度か安堵のため息をついていた。こんな私のことを愛してくれて、抱きしめて安心してくれているのかと思うと、勝手に泣きそうにる。

「っと…慣れてないもんな。すまん…」

 そういいながら少しだけ寂しそうな顔をして、私を腕から解放した。そうだ、私はもうこの人の好きな女の子…いや、もう大人の女性で、彼の奥さんで、恥ずかしがって固まっている場合ではない。心臓は胸を叩いて耳はうるさかったし、顔も熱くてたまらないけれど、私は離れそうになる先生を追うように抱きしめた。やってから、なんて大胆なことをしたんだと思う。

「…」

 黙って私の好きにさせてくれる先生を見上げた。いつもの先生じゃないような、男の人の顔をした彼と視線がぶつかる。

「いいのか」

「…」

 何が良いのかわからないけれど、でも、頷いた。ふっと真顔になる彼の数秒の沈黙がとても長いものに感じられた。顔を近づけられて、そこでようやく「キスされる」と悟る。
 私も、息を止めて、彼に顔を近づける。なんて近いのだろう。彼のまつげの長さも確認できるほど近づいて、瞳孔すらはっきりわかる。目を閉じるタイミングがいつなのかわからなくて、近づくほどに目を薄めていく。そうすると、先生も同じように目を細め、その様子がなぜかとても色っぽくて、思わずきゅっと目を閉じる。

 それから、唇に柔らかい感覚が落ちてくる。私の足は震えていた。それを支えるように、腰に回された先生の腕の力が強くなる。

 数秒であっさりと離れた唇に目を開けると、私はやっと息を吐く。

「もう…我慢…できないぞ…」

 たった1回のキスで私たちはなぜか息を切らせていた。私もそうだけれど、彼も、二人が高ぶった感情を押さえようと呼吸を荒くしている。

「何を我慢してるんですか?私、先生の奥さんなのに…」

「けどな…」

 と、躊躇する言葉を言うけれど、その後すぐ「どうにでもなれ」という呟きを聞いた。そして私は軽々と抱き上げられて、寝室へ連れて行かれる。
 ベッドにそっと下ろされて、私を上から見下ろす視線は妖し気だった。心臓がばくばくと音を立てて、私は何も言えずにされるままになっていた。勿論、それを望んでいるのも私だった。
 お決まりのように、私の上に先生が覆い被さる。慣れた手つきで服は脱がされていく。多分、いつもこうして始まるんだ。
 そして私は、彼の愛撫も、口づけも、何もかも初めての筈なのに、繋がって初めて、それを知っている事を思い出した。

 
 
 
 ・ ・ ・
 
 
 

「よかったなぁ!」

 と笑う力さん。最中はもうそれに夢中だったから言えなかったけれど、目が覚めた時にやっと思い出した事を告げることができた。

「…原因は、何だったんだ?」

「え?」

「忘れたいことでもあったか」

「…」

 確かに、記憶喪失の原因をつい数時間前二人で推測したりもしたが、私が思い当たる嫌な思い出など、どこにも思い当たらなかった。

「なんにも」

「本当だな」

 力さんが、私の体を抱き寄せた。いつから私はこんなに求められて、愛されるようになったんだろう。そうだ、彼が私を切なげに見つめる瞳と同じように、私も、この人が好きで、欲しくて溜まらなくて、失うのが怖くて、求めて、勝手に一人で苦しんでいたんじゃないか。情熱的に想い合う恋を教えてくれたこの人との日々が幸せで、知ってしまったら戻れなくて、いっそ忘れてしまえたら…なんて徒に考えることもあった。

「…怖くなっちゃったんです」

「何がだ」

「幸せだから。いつ、終わっちゃうのかなって。学生の頃は、力さんからは見向きもされなかったから、こんな怖さ、知らないでいられたのに」

「…」

「なんて…別にだからってわけじゃないんでしょうけど」

「…なあ…」

「はい…?」

「怖くても、いいじゃないか」

「…え…?」

「怖いのは、俺も一緒だ。誰だって、未来のことはわからないし、怖い。でも、ひと足だけ」

「ひと足?」

「讃美歌にこんな歌詞がある…やさしき道しるべの光よ、行く手を照らしたまえ、行く末遠く見るを願わず、よろめく我が歩みを守りて、ひと足、またひと足導き行かせたまえ」

「行く末遠く見るを願わず?」

「ひと足先が明るければ、人は歩いて行けるんじゃないか。先が真っ暗で怖くても」

「…そっか、怖くても、いいんだ」

「うん、怖かったら、怖いって言えばいい。そしたら、慰め合えばいいだろ。折角の夫婦なんだ。先は暗くても、隣に俺が居る」

「…」

 この人はすごい。私の恐怖も不安も、あっという間に払って、青空を見せてくれる。急に晴れやかな気持ちになって、私は彼を見上げた。その笑顔は太陽のようにまぶしかった。

「これから出かけないか。海が見たい」

「いきなりですね。でも、素敵」

 今からのんびり支度をして、出かけて行けばちょうど夕日が沈む海が見れるかもしれない。私はそんな午後のデートを思い浮かべて、彼の胸のぬくもりにまた目を閉じた。

 
 
 
Fin

 
 
 

※讃美歌21 460 「やさしき道しるべの」