てのひら会話

小説
甘め
迫バン
連載

同人誌「君にたった一輪を」の続きっぽくなりましたが未読でも読めます。
「てのひら会話」の大迫先生視点です。

 
 
 

~ てのひら会話 ~

 
 
 

 デートで緊張するなんて何年ぶりだろう。しかもつき合って1年も経つ恋人に対して。

 会うのは半月ぶりだった。最近、勤務先 ― 学校の行事で担っていた仕事が多く、中々顔を合わせる機会に時間を割けないでいた。だからだろう。自分でも解るほど浮かれている。新しく恋をしている気分だった。いや、まさに今その通り、俺はこの子に恋をしていて、清々しい気分だ。
 入ってすぐの水族館の館内の水槽は明るいブルーを帯びていて今の気持ちにぴったりだと思った。
 隣の彼女を見ると少しだけ落ち着かない様子だったが、すぐに水槽内の可愛らしい魚や哺乳類に笑顔を見せてくれた。

「見てみろ、餌食ってるぞ!」

「可愛いですね!」

 大きな水槽に2体のマナティが仲良くレタスを頬張っているほうを指さして彼女を誘導する。器用に餌を口に運ぶ姿は可愛らしいぬいぐるみを見ているようで、それは彼女を喜ばせていた。

「間抜けっぽい顔してるな」

 鹿乃に視線を移す。彼女はさっと目をそらして、またすぐ視線を俺に戻すと、にこりと微笑んだ。いきなり見つめるといつもこうだ。でも、見つめるだけなのにいちいち許可なんか取れないし、彼女には慣れてもらうしかない。一瞬だって好きな女に目をそらされるのは楽しいものではない。
 この子が照れ屋なのは重々承知しているし、すぐに何か物思いに耽るくせがあるのも知っている。ほら今も。俺が隣に居るのに別の事を考えているのだろうか。
 少しの嫉妬があって、彼女を呼び戻してやる事にした。

「ぼーっとしてどうした。お前も間抜け面になってるぞ」

「…っえ!」

 顔を両手でぺたぺたと触れる姿は、言った通り少しだけ抜けていた。今はそんなところも可愛いと思えてくるから、恋は恐ろしい。
 水槽を見ながら自分の顔を眺める恋人。もしかして気にしたか?と少し慌てた。女の子に無神経な事を知らず知らずに言ってしまうのはどうも癖らしい。そのせいで振られた事もある。
 つい男友達と話すように冗談を言ってしまう。相手は大事な女の子で(彼女ももう20代だから女の子というのもおかしいかもしれないが)気の利いた事ぐらい言えないと、愛想をつかされてしまうかもしれないし、最悪悲しませてしまうかもしれない。
 俺は言葉を探して、思いついたものをよく考えもせず口にした。

「お前は可愛いぞ」

 それは案外すんなりと俺の口から出た。言ってから気恥ずかしくなったが、これでいいはずだ。
 でも、「間抜け面です」と言って拗ねたように俯くのを見て、やっぱり女の子は簡単じゃないなと再確認する。

「それは冗談だって」

 なぜだろう。喜ばせたいだけだったのに。上手くいかないな。

「女心が解ってないってよく言われる。だから、知らない間に傷付けていたらすまん」
「あ、別に傷付いた訳じゃなくて…」
「すぐ1人で歩いて恋人を置いていくし、喜ばれる言葉なんか解らないし、記念日は忘れるし。そういえば、前の彼女にはよくそれで怒られ…」

 はっとして口を噤んだ。きっと自分はこういうところがいけないのだろう。
 少女の様子を伺うと下を向いたままだった。気に障ったかと思ったが思わぬ言葉を聞いた。

「今は私が先生の恋人ですから」

 そうですよね?と不安そうな声で問いかけてくる。つい食い気味に「そうだ」と肯定した。俺は少し動揺しているらしい。

「確かに先生って、足が速くてすぐ置いてかれそうになります」

「う…気を付ける」

「あ、でも!ちゃんと戻ってきてくれるから…嬉しいです」

「本当か?」

「さっきの言葉も、すごく…ドキドキしました」

 そう言われてこっちがドキリとした。俺の言葉はちゃんと彼女を喜ばせてあげられたのか?あの時の鹿乃の表情を思い出そうと下が上手くいかなかった。

「嬉しくて?」

「嬉しくて」

 笑ってくれる彼女にほっとした。それから鹿乃は俯いて、髪で顔が隠れた。
 その髪をはらって顔を覗き込みたい。喜んでいるのか、悲しんでいるのか、はたまた照れているのか見ていたかった。
 まあでも、あまり見つめると俺もこの子も照れるから、そういうのは二人きりの時に…。
 それからは、いつものように自然な会話が出来た。
 深海魚の部屋に入ると、途端に館内の照明が暗くなる。足を踏み入れて少し歩いてから、ふと振り返った。恋人を数歩置いてきている。暗がりを弄るように彼女の手を探し当てた。それはとても小さく細かった。

「暗いからな…」

「はい」

 もっとスマートに手を取れなかったのだろうか。格好良く、彼女をリードできないものか。いつもは考えなかったそんな事が頭をよぎった。
 それに、柔らかくて細い手を、無骨な自分の拳が握りつぶしてしまわないか不安になった。
 この程度の握力で握っていいのだろうか。もっとそっと握るべきか。考えれば考える程手が固まって汗が出た。
 すると、彼女が小さく笑った。声は少し震えていた。

「どうした」

「手、汗かいちゃって」

 暗がりで彼女の笑顔を確認する。緊張しているのはお互い様か。
 そう思うと途端に手から力が抜けて、自然に彼女の手を握る事が出来た。

「あっはは!俺も!」

「え、先生も?」

「緊張してる。初めてじゃないのにな。デート」

「変ですね」

「変だな」

 変でもないかもしれない。魚を眺めながらそう思った。きっと付き合い始めのカップルなんてこんなものだ。俺たちは少し順序を間違えただけ。
 左手には彼女の感触が常にある。暖かくて気持ちがいい。こんなに気持ちいいなら、抱きしめたらもっと気持ちいいかもしれない。暖かくて柔らかいだろう。彼女の唇はどうか…きっと柔らかいだろう。髪は…頬は…その他は…?そこまで考えて頭を振った。男は仕方ない生き物だな。
 今の妄想を振り払おうと、目の前の水槽のキャプションを眺めた。

「この水槽、蟹が隠れてるんだと。見つけたか?」

 また彼女は何か考えていたのだろうか。俺の言葉に顔を上げてきょろきょろしていた。水槽を指差してやるとじっとそこを見つめる。俺も一緒になって蟹の姿を探した。
 彼女が小さい感嘆の声を上げて、水槽の右端を指差す。

「そこ、動きました!」

 細い指が指し示す場所で、のんびりと蟹の足が動いた。隠れた蟹を見つけて2人で笑い合う。

「居た居た、凄いな森瀬!」

 目が合うと、かちあった視線が熱かった。彼女の視線はいつもこんなに熱いものだっただろうか。
 この子へ視線が行くようになってから逆に彼女の視線をよく感じるようになった。俺が鈍感なだけで、彼女はもしかしたら、生徒だったときからずっと俺をこんな視線で見ていたのかもしれない。
 だんだんその熱い視線に耐えられなくなってくる。

「折角水族館に来たのに、俺の事ばかり見てていいのか?」

 彼女は言われてもしばらくじっとしていて、体をびくつかせたかと思うと一歩後ろに下がった。
 後ろに人が居なかったからいいものを、危ないぞ。と注意してやろうかと思ったけど顔の赤い様子を見ていると言う気になれなかった。
 次の水槽を覗きにいこうと歩き出したところでさっきまで左手にあった温もりが消えている事に気付いて「あっ」と声をあげた。

  「こら、離す奴があるか!」

 別に少し手を離すぐらい良いじゃないか。という突っ込みを心中自分に向けて、また彼女の手を握り直した。今は離してはいけない気がしたし、自分が彼女と手を繋いでいたかったのもある。
 そっと顔を覗き見ると、揺れる髪の間から幸せそうに笑う少女の顔が垣間見えて、不覚にも心臓が踊った。
 30になる男が10代の若造のようにドキドキしながら恋人と手を繋いでいるなんて、生徒には口が裂けても言えないなと、ぼんやり考えた。
 魚の群れが大きな水槽の中で右往左往してその度に蒼い光が揺れるのを見つめながら隣の恋人が呟く。

「夢みたい」

 それに同意する。こうして2人でそっと歩くのも楽しいものだと実感した。
 でも一方で走り出したいぐらい心は浮かれていて、それはやはり「夢みたい」だと思った。
 今夜、彼女をちゃんと家まで送り届けなければいけないのに、今からそれが危ぶまれた。

Fin