可愛い人、ご機嫌はいかが。
「大迫先生って、可愛い」
「こらあ!童顔って言いたいんだな?!先生嬉しくないぞお!」
溌剌としたよく通る声が廊下に響く。生徒たちの笑い声も同時にどっと上がった。笑い合う先生と、クラスメイト。
もう、何年も前の事。あのときは、その生徒たちが羨ましくて、でも、輪の中に入っていけなくて、切ない想いでその光景を見ていた。
先生に、ほっぺを親し気に抓られる女子生徒が、羨ましくてしょうがなかったのをよく覚えている。
「力さんて、可愛い」
「え…?」
私は唐突に、彼にそういった。久しぶりのデートの最中。森林公園の園内を散歩をしながら会話を楽しんでいた。ただ、昔羨ましかったから、私もそれで構って欲しくて、軽い気持ちで言ったのだ。
彼の事を時々可愛いと思っている事は事実だった。恋人に向かって「可愛い」というのはどこのカップルにもある事。とはいえ、男性に言っても喜ばれるかどうかはその人次第な褒め言葉ではある。
だから、私は彼が黙ってしまったことに段々と後悔していた。彼は「喜ばない方」だったのだろう。
「…」
力さんは押し黙って道路に視線を向けている。こっちは、いつもの「こらあ!」という声で何かしら叱ってくれるのを期待したのだ。ほっぺを抓られても良い。頭をぐしゃっと撫でられても良い、拳骨でも構わない。それなのに、彼は私とは逆の方に視線を逸らせたまま。
もしかして、怒らせてしまったのだろうか。途端に不安になる。
「ごめんなさい…」
これは謝った方が良い。そう直感した。けれど
「別に怒ってないぞー」
と、いかにも不機嫌そうな声が返ってくる。つーんとそっぽを向かれて、いよいよ予感は的中したと私は焦った。
「あの、違くて…あの…!可愛いって言うのは…違くて…!別に力さんが童顔だからとか身長低いからとかじゃないんです!」
言ってから、しまった!と思う。
「あ!わ、私、余計な事を!」
「分かってるから、もういい」
「力さんは格好良いです!」
「無理矢理言わんでよろしい」
ああ、見た事無い顔してる。拗ねている彼も可愛い…じゃなくて!
どうにかしなければ。言葉が見つからず、私は青くなった。見つからないうちに口を出すので、どんどん墓穴を掘っている。
「ホントですっ!ち、力さんはカッコイイんです!」
「…」
何も返事をしなくなってしまった彼の袖をつかんで気を引こうとした。せめてこっちを向いて欲しい。
「あの、あの……ごめんなさい…」
「…」
どうしよう。ちょっとふざけただけだったの。怒らせるつもりじゃなかった。そうだよね、男の人に「可愛い」なんて、言っちゃいけないよね。それなのに、彼のコンプレックスを持ち出してしまうなんて…!
私の方が泣きたくなって、でもコンプレックスを言われて悲しいのは彼の方だろうから、そこはぐっと涙をこらえる。
「お、怒りましたよね。ごめんなさい…」
「…」
「どうしたら機嫌治してくれます?ねぇ…」
「…」
「……私の馬鹿…」
呟くと、ちらりとこちらを一瞥され、私は思わず縋るように見上げた。今度はふっと笑われてしまう。
「そういう上目遣いをどこで覚えてきたんだ」
「えっ?」
上目使いになってしまうのは仕方ない。低いと言われる彼の身長より、私はさらにずっと低いのだから。上目遣いが可愛い女だとは自分では思ってないけれど、彼にはどう見えたのだろう。やっぱり、変に見えただろうか。恋人のよしみで可愛いと思ってくれたのかな。
「…好きな女に可愛いって言われるのは、ちょっとだけ、男としてのプライドが傷つく」
「う…そうですよね…」
「でも、俺の顔が幼稚だから可愛いって言ってるんじゃないんだろ?女って、何でも可愛いって言うよな」
「何でもって訳じゃないですよ。力さんは普段男らしくて、カッコいいから、時々見せる可愛い表情とか仕草とか、よけいに可愛く見えるっていうか…そう、ギャップです!」
「なるほど、そうかそうか、俺は男らしいか」
ふふん♪ とまんざらでもない様子で笑う。この人は素直だ。褒め言葉に弱いのも可愛いと思う。
「だ、だから、力さんはカッコいいから時々可愛いんです」
「なんだか、変だなぁ」
「変ですけど、そうなんです」
私の拙い言葉に、それでもふむっと頷いてくれる力さんは、少し考える素振りをした。
「確かに、普段自信無さそうなお前が、強気なところを見るとぐっとくるな」
「そうなんですか?」
「お前が告白してきたときな。成長したなあって思って、俺は泣きそうだったんだぞ~」
「…」
それ、なんか違う…。つまり子供の成長を喜ぶ親の気分じゃないのか。そうじゃないんだ。私が彼を可愛いと思うのはギャップもあるけれど、そもそも…
「私のはそういうんじゃなくて…。好きな人の事を可愛いって思うのは仕方ないですよ」
「…そうだな。俺だって好きな女のことは可愛い」
「…」
「お前の事だバッカヤロー!」
そういって無造作に髪を撫でられる。彼の愛情表現が嬉しいけれど、せっかく梳かした髪がぼさぼさだ。でも、いいんだ。
「それでも、好きな女の前ではカッコいい男でいたいと思うのが、男ってもんだ」
「もちろん、格好良いですよ。…やっぱり、機嫌悪くしました?」
力さんが笑って「いや…」と言いかけて口を閉ざす。私はその意図が汲めなくて、言葉を待った。
「じゃあ、俺のご機嫌取り、してくれないか」
「え…!」
「な。俺は今機嫌が悪い」
そんな事言って、ニコニコ笑っている彼は機嫌が悪いようには見えない。でも、私のご機嫌取りを欲している。
それはそれで、なんだか嬉しい。
「どうすれば良いですか?何か欲しいものでもありますか?」
「物が欲しいんじゃないんだ。でも、そうだなあ…」
そういって腕を組んで、彼は歩みを止めた。水辺のそばまで歩いてきたようで、そこまで太陽に反射された水面の輝きが見える。白鳥の白さも眩しさを際立たせていて、それに目を奪われていると、力さんが
「お前から手をつないで欲しい」
と、あっさり要求を述べた。
「いつも俺からだ。お前は袖をひっぱったり,いちいち俺に許可を得ないと繋いでこないじゃないか」
「でも…」
「恋人なんだから、拒んだりしないぞ」
力さんの腰に降りた手を見つめる。いつもなら、手を伸ばしてくれるそれはそっけなく下に垂れたまま。湖に沿って敷かれた石畳の道は恋人が何人も歩いて行き交い、彼らは仲睦まじく手をつないだり、腕を組んだりしていた。
ああ、いいなあ。と、羨ましげに盗み見る。私の様子をうかがう力さんの視線が笑っていた。
ええい、恥ずかしがってちゃ駄目だ!
そう、私はこの人の恋人なんだから、堂々としてればいい!
そう自分を奮い立たせて、彼の腕に手を伸ばした。咄嗟に、手ではなく、腕に手を伸ばしてしまったことに戸惑う。
「お」
っと力さんが驚いていたけれど、私は聞いてない振りをして腕に手を回した。なんてこと無いはずなのに、妙にドキドキしてして声も出なかった。拒まないと言われて拒まれたら怖いという少しの恐怖と恥ずかしさで心臓がばくばくうるさかった。ぎゅっと彼の腕に体を添わせて、何か言ってくれるのを待つ。
「お前にしては、大胆だなあ。嬉しいぞ!」
と、優しく上機嫌に言われた。途端に心が軽くなって、嬉しくて、彼を見上げる。自分のしたことが相手を喜ばせている快感は、恋愛の醍醐味かもしれない。
「機嫌、治してください」
「うん、そうだな、いい気分だ」
彼はゆっくり足を踏み出した。つられて歩く。木々を通る風が気持ちいい。こんな風に腕を組んで歩くなんて初めてで恥ずかしかったけれど、ちらほら見えるカップルも同じように仲睦まじく歩いているから、これぐらいで一目を気にしてるのはもったいない気がして、彼の逞しい腕をおもいきり胸に抱いた。
他に、何をすればいいんだろう。ご機嫌取りというのは難しい。彼が気持ちいいと思うことをしてあげればいいのだけれども、それがなんなのか具体的なことがわからない。この人が今何を求めているのか、聞いてしまえば簡単だ。でも、そればっかりでは恋人としてどうなのだろう。
「…」
湖を眺める彼の横顔をじっと見る。表情にヒントが隠されていないかな…と期待した。でも、じっと見つめていると、ああ、今日はちょっと寝癖がついてるな、とか、この位置からだと睫毛がよく見えるな、とか、首筋が綺麗だな、とか、やっぱりカッコいいな、なんて考えてしまって、思考が横道にそれてしまう。
「何だ?」
「え?!」
私の視線に気づいて振り返る彼と目が合った。
「カッコいいなって…」
「…」
「力さんが」
馬鹿正直に答えてから、顔が赤くなる。いいんだ、いつも言ってるし。そう思って開き直った。彼がどんな顔をしているのか気になったけれど、思わず俯いてしまってそれも確認できない。
「それ、機嫌とってるのか?」
「え…?」
「いや、なんでもない」
ちらりと顔を盗み見ると、彼は海ではなく、今度は視線を道の先に向けている。そして「あ」と言ったかと思うと、私が抱いている腕と逆の手を挙げて、誰かを呼び止めた。
「オーッス!」
少し先を歩いていた少年と少女がこちらを振り向く。私は咄嗟に力さんの腕から手を離して、彼の後ろに隠れた。笑顔を見せて走り寄ってく親しげな様子を見るに、おそらく彼の生徒だろう。
「大迫ちゃんじゃん!」
「何だお前ら、デートか?」
言うと、途端に真っ赤になる若いカップル。可愛いなぁなんて思うけれど、彼らと私とじゃあまり年の差も無いんだろうな。ただ、私の恋の相手がちょっと大人だというだけで。
「青春だなぁ!」
と言って少年の肩を叩く力さんに、文句を言いながらも嬉しそうな二人。すると、少女と目が合った。そして少女の目はすぐ弧を描いて先生に向けられる。
「ねえ、先生もデートなの?」
「おお!そうだ!青春してるだろ?」
言ってからあからさまに「意外だ!」という顔をした二人に拳骨をかます力さんの後ろから失礼の無い程度の挨拶をした。なぜ隠れてしまったんだろう。行儀よく、元気な挨拶を返してくれた二人に、私の緊張はほどかれて、彼の隣にそっと出た。聞けば、彼の担当しているクラスの生徒らしい。
「恋人募集中って言ってたのに」
と言う少年の言葉に、先生が大きく笑った。親しげな教師と生徒の会話。微笑ましいな、なんて思いながら、私は昔のことを思い出していた。デートなんて自分には無縁のイベントだった高校時代、友達のデート現場に遭遇して、途端にそれが別の世界のことじゃないんだな、と何となく実感したんだ。高校生にもなって、いつまでも子供みたいな気持ちで居た。恋愛なんか先の話だって。
恋していた相手は担任の先生で、彼の横に立つには自分はあまりに子供だったし、彼の隣に立つことが、夢物語な気がしていたのだ。
「先生の恋人も同じように暑苦しい女性だと思ったのに」
「先生そんなに暑苦しいか?」
「「暑苦しいよ!」」
その生徒たちの意見は、私の頃にもあった。氷室先生の結婚指輪を見た生徒が「どんな奥さんなんだろうね」なんて話題で楽しんでいたのだ。教師たちの恋人や奥さんを本人のイメージから想像して、そのうち「じゃあ、大迫ちゃんの女性のタイプって?」という話になった。私は内心ヒヤヒヤしながらその話を聞いていた。
「やっぱり、元気じゃないと、あのテンションについて行けないよね」
という結論があっさり出されて、その話題は終了した。自身は言ってみれば、元気というより、カラ元気な場合が多いし、目の前の若いカップルもイメージとは違う担任の恋人に多少驚いただろう。
私は、彼の隣に立っていて、変じゃないだろうか?と、急に恥ずかしくなった。彼に恥をかかせていないだろうか。
「先生とのデートって疲れませんか?」
私に質問した男の子に力さんが2回目の拳骨を入れる。
「とっても楽しいよ」
と、下手なりに笑顔を作って答えた。嘘は言っていない。ただ、彼が時々歩くのが早いし、元気だし、デートの終わりはいつも疲れてしまうけれど。
「今、散歩してたんですか?」
女の子が男の子の隣でまぶしい笑顔を向ける。すらりと背の高い、愛嬌のある女の子だ。こう言う女の子に憧れていたんだっけ。そして、今もこんな風に思い切り笑うことを目標にしている。彼女の笑顔に見とれながら、私はかろうじて返事をした。
「大迫ちゃんが散歩してる姿って新鮮だな」
「いつも走ってるもんね」
「ちょっと待て、廊下ぐらい静かに歩くぞ」
好き勝手言う生徒たちに突っ込みを入れるが、そのイメージは仕方ない。あの時の彼はもちろん学校の廊下を歩く姿を見かけるけど、なぜか本人のイメージが彼を脳内で走らせるのだ。それもこれも、あの頃の桜井兄弟の悪戯のせいかもしれないが…。
「俺だってなあ、恋人にあわせてゆっくり散歩するときもあるんだぞ!」
「へえ~」
なんて言いながら力さんを物珍しそうに見やる二人。
そして力さんがまた拳を振り上げる真似をして、生徒たちはキャっと笑いながら逃げるように離れた。
「俺たちもう行くね、先生!」
「邪魔して悪かったな。デート、全力で楽しんでこい!」
「はーい!」
女の子がスカートを翻して男の子の手をとって無邪気に駆け出す。ボート乗り場を指差して笑い合う二人の声が届いた。
力さんを見上げると、愛おしそうに彼らを見送っている視線。妬けてしまう。だから、なんてことない話題で彼の気を引いた。
「高校生の頃を思い出しました」
「あんな風に、誰かとデートしたのか?」
「違いますよ。生徒の前の力さんが、あの頃のままだったから、懐かしいなって。それに、人生で初めてのデートは、力さんとでしたよ」
「そうか」
なんだか嬉しそうな彼。
「好きな女の初めてになれるのは気分がいい」
「…もし、初めてじゃなかったら、ガッカリしました?」
「ガッカリはしないが、嫉妬したかもしれん」
「力さんが嫉妬?」
「俺だって嫉妬ぐらいする」
「された事無いです」
「そりゃあ、お前に悟られない様に気をつけてるんだからな」
「ええ!どうしてですかあ」
そう言ってから、私だって隠せるものなら隠したいと思い至って口を閉ざす。考えてみたら、嫉妬っていうのは好きな人からされるとこんなに嬉しいのに、する方は隠したい。変な感情だ。理由はやっぱり
「格好悪いだろ」
と口にする彼に、賛同する気持ちと、彼のかっこ悪いところもかっこいいなと思ってしまう自分の盲目的な感情が交差する。
「そんな事無いです。可愛いです……あ」
また言ってしまった。
「ごめんなさい」
「ぶっは!」
と彼は吹き出して笑っている。さっき「可愛い」と言った時とは違う反応に困惑している私を見て笑を引っ込めた。
「お前も、するのか?」
「え?」
「嫉妬」
「…」
「嫉妬させてるか。俺は。不安にさせてないか」
「…しますよ。だって、貴方は移ろ気だもの」
「え?!」
「男の人ってすぐ美人に見とれるんですね」
「な?!お、俺は、お前だけだ!」
いきなり慌て出すところ、自分でちょっとだけ思うところがあったんじゃないかと勘ぐる。
わかってる。彼はいつだって真剣だ。私のことも大事にしてくれているし、好きだとも、時々ではあるけれど口にしてくれる。それでも、たまーに美人に見とれてよそ見しているのも、知っている。
「…な…なあ、怒ってるのか?」
「もお…私が力さんに怒れないの知ってるくせに」
ちらりと彼を見ると、へらっとだらしなく笑って、でも困った顔をしていた。お付き合いしてから見せてくれるようになった表情だ。
「機嫌治せ。な?」
そう言って、自分の腕に絡んだ私の手をとって、指を絡めると、歩き出す。
「甘いものでも食いに行こう。好きだろ?」とか「あの店の服、お前に似合いそうだ」とか、なんだかいつの間にか私の方が機嫌を取られている状況が、なんとなくくすぐったくて、でもちょっと嬉しくて、私の様子を伺う彼に、下手でもいい、思いっきり笑顔を向けた。ご機嫌なんか取らなくたって、貴方と居るだけで私はこんなに幸せで、気分は上々。たまに切なくなるけれど、ひっくるめて大好きだと、繋いだ手からこの気持ちが伝わるといいのに。
そう思っていると、私の手を握る彼の手に力が篭って、不思議と自然に、また私は力さんの腕に抱きついた。
fin