星だけが聞いている

小説
甘め
迫バン

雨が降っていた。

 臨海公園へ遊びに行こうと思っていた私たちのデートは急遽力さんの部屋で過ごすプランに変更された。
 調理器具も食材も満足に無い彼の部屋で適当に食事を作り、2人でテレビを見ながら談笑を交えてゆっくり食べる。
 「こんなデートですまん」と苦笑いをされたこともあったけれど、私はのんびり一緒に過ごすのが好きだったし、それをわかってくれた力さんは笑って、この少しだけ物が不足している質素な家デートの提供を謝る事は無くなった。

 足りないぐらいが丁度良いと思っているのは私だけなのか、彼も同じ気持ちなのか。揃わない食器で不揃いに並べられた食卓も、足りない調味料で作った料理も「食器を買おうか」と計画を練ったり「バターが欲しいな」なんて味に苦笑いしたりするそんなやり取りに私は幸せを感じていた。

 料理に不慣れな自分の腕を謝ったこともあったけれど、それも「一緒に覚えよう」と言ってくれたからもう謝らないように気をつけている。
 彼に「お前は謝るのが癖だな」と苦笑いされる事は多い。

 夕方のオレンジの光がカーテン越しに射し込むのに気付いた。もう少し一緒に居たいけれど、日が落ちてしまうのはもうすぐ。

 そしたら彼は言うだろう。

「送って行く」

 と。

 仕方の無い事だが、いつもそれで寂しい気持ちになる。力さんが口を開く度にその言葉を警戒しながら、私はふと考えた。

 今日ぐらいは私から言おう

 別れの挨拶。

 言われるのが寂しいなら言ってしまえばいい。

「もう、帰りますね」

 そして、言ってからすぐに後悔した。
 言ったところで言われた時と寂しさは変らない。むしろ後悔の気持ちが寂しさに上乗せされて余計に辛い。

「え」

 っと意外そうにこちらを見る力さん。私から言うのは始めてだったから驚いたのだろう。彼は「ああ」と壁の時計を眺めて上着を着込んだ。

 この部屋から帰る時は車で送ってくれるのが常だったから、今日もそのつもりなのだろう。車のキーを上着のポケットに突っ込むのを眺めながら私もコートを着込む。

 今日の最後に抱き締めてもいいかな

 なんて考えて機会を伺った。靴を履いたら一回だけ甘えよう。きっと許してくれる。そう思って玄関へ続く廊下のドアに手をかける。

「なあ」

 と後ろから声がかかって、それが意外に近いのに驚いた。耳元で聞こえた彼の声は少しだけ擦れていて、でもその声にのんびりときめく時間なんて与えられずに後ろから抱き竦められる。

「次はいつ会える?」

 心臓が煩いぐらいに脈打って回りの音が聞こえなくなっているのに彼の声だけははっきり聞こえる。もともとハキハキと喋る彼の声は聞き取り易いが、今は私の耳が彼の声だけに集中しているせいもあるだろう。

 もうずっと、デートの約束は私が連絡を入れていた。月に2回会えればよかった。毎週じゃ迷惑だと思ったし、でも三週間も会えないのは寂しい。今桜が見頃ですよ、とか。面白い展覧会がやってますよ、とか。何か口実を探してからメールをする。その度に承諾の返信が来てデートを待ち遠しく思う。当日の夕方になるとその反動で寂しさが強い。

 こんな風に力さんが次の予定を聞いてくるなんて初めてだった。ワンテンポ遅れて言葉の意味を理解し、幻聴かと思って記憶を反復させているうちに畳み掛けるように

「来週は?暇か?」

 と聴いてきた。来週の予定?それを聴きたいのは私の方だ。いつだって会いたいのも私の方だった筈だ。それに、毎日忙しい彼のこと。私に構わず体も休めてもらいたい。困惑しながらなんとか言葉を絞り出してやっと

「いつでも」

 と言った。こういう時、前に友達と観に行った恋愛映画だと当時話題の女優が「そうね、空いてるけど?」と思わせぶりな言葉と美しい笑顔で対応していたのに、私と来たら声が震えている。

「明日、用事あるのか?」

 来週の予定を考えている時に今度は明日の予定を聴かれて混乱する。力さんの唇を髪に感じて、気絶してしまいそうだ。

「特に何も」

「泊まって行けよ」

 さらっと言われたその言葉はまるでいつも気軽に泊まりに来る恋人への物言いだ。でも力さんの部屋にお泊まりなんてした事はまだ無い。体を重ねた経験は何度もあるが、夜になるとちゃんと家まで送ってくれる。

 そりゃあ貴方がいいなら是非!

 と叫びたい気持ちは山々だが、女には準備という物があるのだ。着替えも寝間着も持ってきてはいない。始めてのお泊りで要領もわからない。
 それに、この先の展開を想像して下着の心配も始めてしまった。可愛いのを付けてきた筈だが思い出せない。
 まだ一緒に居たい気持ちとお泊まりを心配する気持ち交差する。

「着替え…」

 と問題の1つを提示してみると即答で

「俺の服でいいだろ」

と返ってきてしまった。

 お洋服を借りる?袖を通して楽しいのはきっと私だろうがその姿を大好きな人の前でさらすのはちょっと抵抗があった。
 回りからは小柄だ小柄だと言われているが力さんの服は思ったより男性のそれで私とはサイズが大きく異なる。
 彼シャツなんて素敵な俗語が存在するが私の胸のサイズでは彼を喜ばせはしないだろう。

「おっきいです」

「俺しか見ない」

 だから恥ずかしいのに!

 という乙女の見栄はこの人にはわかるまい。
 でも、私がごねる度に後ろから抱き締める腕に力が入るのは、本気で今夜引き止めたいという想いの現れなのだろうか。
 腕の束縛を感じる度に私の呼吸が止まる。この人が本気になったら私なんて首を絞めなくても窒息死させられるのだろう。そう本気で馬鹿な事を考えた。

 返事をしない私にやきもきし始めたのか首に顔を埋めて「なあ」とか「ダメか?」とか甘えて来る珍しい様子にすっかり舞い上がっている自分がいる。
 でも彼に気を揉ませるのは正直いい気がしないし「お泊まりします」と返事をしたいのに、耳やら首筋やらに唇を落とされるからその度に息を飲むので返事が出来ない。
 これは罠なのではないか?私が絶対に逃れられない罠。

「いつもは、帰れって言うのに」

 やっと言った言葉。こんな事言いたいんじゃないのに。

「拗ねてるのか?」

 ほら、不機嫌そうな、心配そうな声。でも、またぎゅうっと腕に力が入って、それは腰に降りて行く。私の体は馬鹿みたいに反応して恥ずかしかった。彼の言葉に首を振る。

「けど、準備が…」

「必要なものは近くのコンビニで買ってやる」

 「だから、なあ」と、うなじに頬擦りされる。体が震えたのはきっと気づかれているだろう。

「急に、なんで…」

「別に急じゃない」

「私がいつも寂しそうにしてるから?」

「それもあるけど」

「ごめんなさい…」

「お前、何か勘違いしてるかもしれないけどな」

 腕の束縛の力が消え、その隙に後ろを覗き見ると、彼は眉を寄せて不機嫌そうに目をそらした。いつも凛々しい彼が、なんだか幼く見えて、可愛くて、愛しくて、言葉を待つ。

「俺だって好きな女ともっと一緒に居たいって思うんだ。でも、こんなの普通だろ?」

 さらっと。ほんとにこの人はずるいと思う。

「…お前が自分から帰るって言うから、俺また何かしたかもしれないと」

「なんにも!私だって、まだ、一緒に…」

 そこまで言うとみるみる力さんの表情が明るくなる。いつもの笑顔だ。私の大好きな笑顔。

「いいのか?」

 頷く。すると「我が儘言ってすまん」と照れた顔で苦笑いされた。
 彼は、照れ顔すら素直に見せてくれる。私がこんなに必死になって隠しているのに。実際は隠せていないけれど…。

「迷惑かけたくなくて、聞き分けよく帰ろうと思ったけどやっぱり寂しくて。引き留められて嬉しくって」

「じゃあ、黙ってないで返事してくれよ」

 言葉は責めていても上機嫌な表情にこちらもほっとする。

「力さんがあんなにぎゅってするから…ちゅーとかするから…」

「な、なんだよ。駄目だったのか?」

「ドキドキして苦しくて、声がでなくて」

「慣れろ」

「…頑張ります」

「ふっ」

 さっきまでの切な気な彼は何処へ行ってしまったのだろう。笑い声を頭上に私はただ赤くなるしかなかった。

「何だか甘えてすまん」

「甘えてるんですか?」

「うん…」

 そう呟くと、今度はきついぐらいに抱き締められる。でもこれが心地いい。

「もし一人なら、寂しい夜なんかないけど。お前を想うから寂しいときもある」

「嬉しい…それ、おんなじ」

「何と?」

「私も、きっと力さんを好きじゃなかったらこんなに毎晩切なくないのに」

「あっはは!」

「笑うところなんですかぁ?」

「すまん」

 それでも、笑ってる。

「コンビニついでに散歩にいくか」

 散歩は大好きだ。最近ようやく手を繋いで歩くのが当たり前になってきて、散歩はその口実になる。

 外に出ると、もうすっかり日が暮れて、空には星が散っていた。揺らめく光が眩しいのは私が今幸せだからだろう。

「力さん」

「ん?」

「もっと甘えてほしいです」

 私を見つめていた瞳は、ふいに空の星に奪われる。でも、追って見上げた彼の横顔は耳元がほんのり赤くて、それはこちらにも伝染して、まだまだ寒い夜風の冷たさも忘れてしまった。

「帰ったら…な」

 星がまた揺れた。

Fin