発汗作用 -Bambi Side-

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「全く反応しなくて…はい。リモコンの電池も取り替えたんですが」

 リビングからはきはきした声が聞こえてくる。電話越しで喋る声は普段と変わらずしっかりしている。そう言えば、電話で話す時、彼の声はとても聞き易い。そんな事を考えながら寝室に常備されている扇風機を持ち上げた。

「修理、午後来てくれるって」

 携帯電話の通話を切ってソファに腰を下ろしなが通話中の声とは打って変わって吐き出すような声で言った。故障したエアコンの修理の手続きの電話をかけてもらっていた。

「有り難うございます。それまで扇風機付けましょう」

 リビングのソファの前に扇風機を置いて、近くのコンセントにコードを差し込む。スイッチを押すと窓から入ってくるより強い風が心地よく流れ出した。

「ああ涼しい」

 特に労働などしていないのに疲れたように扇風機の前で風の恩恵を享受していると後ろで笑われた。彼もこの熱さで参っているらしい。私も彼もすこし汗ばんでいた。
 冷蔵庫に麦茶が冷えている事を思い出して台所へ駆け込む。二人分の麦茶を入れて戻ると彼は嬉しそうにそれを受け取った。

「おお!有り難う!」

 渡してすぐに一気に飲み干される麦茶。飲みっぷりが暑苦しいのも彼の魅力だろう。

「入れてきますか?」

「いい、自分で入れる」

 私が差し出す手を制して立ち上がった。キッチンから「涼しい~」という声が聞こえて冷蔵庫で涼んでいる様子が想像できた。私も彼も良い歳して子供みたいだな。けれど、そんなところが可愛いと思える。
 それからすぐ、入れ直した麦茶が入ったグラスを持って帰ってきた。どすんと隣に腰掛けた彼は、少しだけ遠かった。もっと近くに座って欲しかったなぁという勝手な要望があって体をよせようと思ったのだけれど、思ったように体が動かずそのままこてんと恋人の膝に落ちてしまった。
 あまりにゆっくり落ちていったので故意だと思われただろう。単に近づこうと思っていただけだったからこれでも構わないのだけれど、自分で驚いてしまった。ちょっと大胆だった気がした。でも、熱さであまり頭が回らず、この居心地の良い膝枕(硬め)に頭を預けた。

「お前の頭、熱い」

 ちょっとうんざりした声で言われる。確かに熱いよね…。謝って座り直そうとするが、それをそっと制してまた寝かされた。

「いいぞ。このまま横になってろ」

「有り難う…ございます」

 ドキドキした。いいのかな。我が侭じゃなかったかな。いきなりこんなことして…。今更ぐるぐる考えだす。顔を上げると彼の顔が近くてふいっと外の方を見た。

「力さんは、くっつくの…嫌いですか?」

「汗かきなんだ、俺。お前が気持ち悪いだろ」

 汗をかいているのにくっつくのは、普通なら気持ち良いものではないかもしれないが、恋人のそれは全然違うのだ。そう全然だ。でも「力さんだから良いんです」っと告白するのも恥ずかしい気がした。
 言葉を探しながら起き上がる。それでも何も思い浮かばず、彼の視線にいたたまれなくなって、手持無沙汰な私の指は彼の逞しい二の腕に触れた。
 ええい!と抱きつく。そうすると肌に流れる二人の汗が触れて混ざった。それを考えるあまり落ち着いていられなかった。どうしてこんなに心臓が五月蝿いんだろう。

「今日は甘えん坊だな」

 本当だ。我ながら大胆だと思う。でも、なぜ?という疑問の答えを出そうという気力は熱さのために出なかった。そう、熱さの所為だ。なにもかも、クーラーが壊れてしまった所為だ。
 責任を自然現象と家電に転嫁し、私は好き勝手に恋人の二の腕に頬を押し付けた。

「嫌じゃないですか?」

「嫌なもんか」

 そう返ってきてほっとする。彼が嫌がる事はしたくなかった。でも、熱いのを私のために許してくれているのは解っていた。それはやっぱり、私は彼に甘えているのだ。甘えてばかりじゃないか。彼は私に甘えてくれないのか。
 私を好きにさせて、彼は氷の溶けかけた麦茶を飲む。私も飲むように進められた。曖昧な返事をして、彼が喉を動かしてお茶を飲むのを眺めていた。

「脱水症状になるぞ」

「もうちょっとこうしていたいんです…」

 そう、今だけ。もうちょっとしたらシャキッとしよう。そう思った。
 彼は反対の手に持っていたグラスをこちらに傾けて、私の口元に持ってくる。されるままそのグラスに口をつけ、一口飲む。間接キスだとか、飲ませてもらったとか、そういうことがいっぺんに駆け巡って頭を混乱させていた。
 頬に大きな手が当てられる。グラスを持っていた手は冷たくてひんやりした。一瞬どうしたのか考えて、それから心配されていることに気付いた。

  「ただ、力さんといちゃいちゃしたかったんです」

 正直な気持ちだった。本当はいつだって触れ合っていたいけれど、さっぱりした恋人はあまり触れ合う事をしない。本人は戯れに触れてくるときがよくあるが、それがいつなのか、何が原因なのかよくわからない。私ばかり毎日好き勝手くっついて鬱陶しがられるのたりしたら嫌だし怖かった。でも、たまには許してくれるんじゃ無いかと期待する。
 ちらっと顔を見上げると嬉しそうに笑う恋人の顔がこちらを向いていた。

「じゃあ、いちゃいちゃしようか」

「え?」

 オモチャを見つけた子供みたいにニコニコしている一方で、指は私の肩から二の腕を撫でてそっと押し倒す。
 上下になると彼の鼻先から落ちた汗がぽたりと垂れて私の頬を濡らした。力さんは襟で無造作に自分の顔を拭う。それを見ているだけで心臓が早くなる。苦しくなる。
 早く抱きしめて欲しくて腰に手を回すと、解っているというように彼の体が体重をかけてきた。重いけれど心地よい。

「熱いだろ」

「いいから…力さん…」

 なんて余裕の無い声で余裕の無い事を言うのだ私は。どうしてこんなに欲しがっているんだ。
 首や腰に彼の腕が回されてぎゅうっと抱きしめられる。熱い。熱い。たまらない。汗は混じり合って私と力さんの境目がどこだか解らなくなったように錯覚した。
 洋服は着ているのに裸で抱き合っているようだった。服の上から撫でられるといつもよりゾクゾクして、思わず吐息が漏れる。耳元で、すんっと彼が匂いを嗅ぐ音がした。こんなに汗をかいている体を嗅がれていると思うととても恥ずかしくて興奮する。
 私をこんなに乱しておいて、体がふっと離れていく。どうして?と縋るように見上げた。切ない声で名前を呼ばれて胸が高鳴る。力強く抱き上げられて寝室へ歩き出した。

― ピンポーーン

「あ」

 同時に間抜けた声が出た。二人してリビングの時計に目をやる。玄関から「はばたき電化でーす」という男性の呼びかけがあって、午前中に呼んでいた修理業者が来たことを知らせた。
 力さんはそっと私を下ろして玄関に向かう。エアコンが直ったらいつもの涼しいリビングだ。それは有り難いはずなのに、彼の汗を感じてあんな風に抱き合う事はしばらく出来ないかもしれないと思うともったいない気がした。

Fin


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