宝石に口づけ

Alphyne
小説

 息をするのも憚られる。ベッドに腰かけているのに全く落ち付かないのは、足元の恋人のせいだとアルフィーは思った。オシャレの知識に疎い自分のために、アンダインがネイルポリッシュのあれこれを話してくれているのにその半分も内容が入ってこない。

「今度一緒に風呂入って、甘皮とってやる」

 という言葉にも夢心地に「うん」と応えてから数秒後に「なんてことを承諾してしまったんだろう」と後悔する。相手の戸惑いなんか知らないアンダインは、アルフィーの爪一本一本に、丁寧にベースコートを塗っていく。

「お前の爪は小さいな。塗りにくい」

「ご、ごめん……」

 アンダインは視線をアルフィーの爪から離さずに笑って「私が不器用なんだ」と言った。ベースコートを塗り終わると、アンダインがアルフィーの足の指に息を吹き掛ける。された方はくすぐったいし、恥ずかしいし、胸のソウルが飛び出そうだ。

 一体何でこんなことになってしまったのだろうか。そうだ発端は、アンダインが今日のデートに指を飾ったネイルだ…。アルフィーは騒ぐソウルを落ち着けようと、数時間前のことを思い返していた。

 
 
・・・
 
 

 宝石のように輝く、艶っぽい光沢の葡萄色が均等に配置されている爪に、朝から目を奪われていた。アンダインが指を動かす度に輝くそれは、彼女の指にあるというだけで高級なジュエリーにさえ見える。

「今日は一段とつれないな」

 アルフィーの視線を奪っていた指が急に伸びてきて、彼女の顎をそっと撫でた。我に返って顔を上げると、爪と同じ色のアイシャドウで縁取られた金の瞳が細く弧を描いてこちらを見つめている。睨まれているわけでもないのに、ナイフのような眼孔に、アルフィーはいつも緊張してしまう。

「ど、どうして?」

「ずっと下を向いて、目を合わせてくれないじゃないか」

「へっ?」

「折角のデートなのに」

 地上に出たモンスターたちの娯楽の一つが、天気の良い日に出掛けて目一杯日光浴すること。人間からは「変わってる」と言われるが、地下生活が長かった彼らには贅沢な娯しみだ。
 今日二人は人間の居住エリアの都会にある広い公園まで散歩に来ていた。
 中央に大きな湖があり、それを囲うように散歩コースが縁取られ、球技が出来る広場や、子連れが楽し気に騒ぐアスレチック、ちょっとした動物園もある。何より、湖を囲う散歩コースは木漏れ日を楽しむのにうってつけの並木道で、風が気持ち良い。
 アンダインの言うように、楽しまないと損だが、そうは言われてもアルフィーは彼女の爪から目が離せない。

「今日の爪、綺麗」

 「つれない」と言われたアルフィーはせめて誤解されたくないので正直に言ってしまう。デートの最中に心ここにあらずだったのは申し訳なかったが、彼女から心が逸れたわけではない。そう、それもこれも、彼女が美しいのが悪い、というのがトカゲの言い訳だ。

「良いだろ。新色」

「うん、素敵。宝石みたい」

 切なげに苦笑いしていたアンダインの表情は、番の視線を奪っていたものが自分の爪だと知るや否や一変してにこやかになった。

「上手に塗るんだね」

「良く見ると、雑」

 そう言って、アンダインはアルフィーの目線に指を持っていった。言われてみれば、大きな爪の左右は端まではしっかり塗られていない。

「不器用だから、はみ出るんだ。こうするとぱっと見綺麗だろ?」

「なるほど、上手」

 気分を良くしたアンダインがふふっと笑った。アルフィーの視線から外れた指は、黄色い指を掬って絡み付く。宝石が手の中にやってきて、アルフィーはときめく。

「こんな仕上がりでもいいなら、お前にも塗ってやる」

「似合わないよ」

「アルフィーに似合う色を持ってる」

 そう自信満々に言われて、アルフィーは頷くことしかできなかった。

 
 
・・・
 
 

「爪は手入れしてるんだな。先が丸くて綺麗だ」

 言いながら足の裏を撫でられ、回想に浸っていたアルフィーは現実に引き戻された。アンダインの大きな手はアルフィーの足をすっぽり手のひらに収めてしまう。しっかりと固定された足を引くことも出来ず、アルフィーは魔法がかかったように動けなくなっていた。

「そ、それは……」

 お洒落目的でなくても爪を手入れするのは、アンダインを傷付けたくないから。それを言って良いのやら、恥ずかしいやらで言葉を濁してしまう。
 アンダインと身体的な接触が増えて、ベッドで素肌に触れ合うことも多くなって暫くしても、アルフィーは一方的な愛撫にひたすら耐えるだけだった。アンダインに何かもっと言葉やソウル以外で愛情を返したいと思ってはいるが、何もできずに固まって黙ってしまうアルフィーはそんな自分に定期的に嫌気すら覚えてしまう。方やアンダインはそんなことを気にしているわけではないが、それでもアルフィーはいざという時のためにと、爪は尖らせないよう気を付けていた。

 指の先をしげしげ見られているのがどうにも慣れず、せめて気を逸らそうと適当な話題を探す。

「アンダイン、昔はもっと長かったよね」

「よく覚えてるな」

「強そうで、カッコいいなって思ってたの」

「短いのは嫌か?」

「ううん、それも素敵だよ」

「良かった。長いと、万が一でもアルフィーを傷付けてしまうかもしれないからな。特にセックス中、お前に痛い思いをさせたくないし」

「ぇ…ッ」

 自分と同じように考えて爪の手入れをしているアンダイン。「同じ理由だよ」という言葉が喉まで出かかっているのに言えない。素直な彼女と意固地な自分の対比が時々惨めに思う。
 黙っているアルフィーの言葉を待たず、アンダインはまた彼女の爪に息を吹きかけた。

「もしかして、アルフィーの爪の手入れって、私のため?」

 肩をビクつかせた恋人に、確信を抱いたアンダインがニヤついた。そうだとしたら、なんといじらしいのだろう。アルフィーに対する愛しさを堪えながら、アンダインは彼女の爪に指の腹でそっと触れた。トップコートは乾いているようだ。

「背中の痕、気にしてるのか?」

「ァ……」

 アンダインの背中に痕など残っていない。恐らく今は。だが、二人の情事の後は、小さな痕がぽつぽつと彼女の背中に半日ほど残る。エクスタシーを目前に怖くなったアルフィーが無意識に彼女に抱きついてしまう時に付けてしまうのだ。

「ご、ごめん」

「私はアルフィーの爪で傷付いたりしない。それに、なんだか、良いだろ?」

「い、良いって?」

「アルフィーとえっちした痕がしばらく残ってるみたいで」

 言われて、アルフィーの顔に瞬時に熱が集中する。

「やっぱり、気にして切ってくれたのか」

 目を泳がせながら頷くと、それを見てアンダインが牙を見せて笑った。

「嬉しいぞ!」

 そう言ってアルフィーの足の指に唇を這わすと、急なことにびっくりしたアルフィーが両手で顔を覆ってしまう。アンダインは恥ずかしがりの彼女が毎回そうするのがたまらなく好きだった。

「そ、そんなとこにキスしないでよ……」

「どうして」

 どうして、と問われても、上手く説明できない。アルフィーの中で、アンダインにそんなことをさせてはいけないような気がしている。彼女が以前人間のSNSに引っ付いていた頃、キスの箇所の意味について解説している呟きを見たのを思い出した。それからようやく違和感を説明できる言葉が見つかる。

「足の指のキスはね、す……崇拝の意味があるの。だからね、アンダインが私にするのは、へ、変だよ。逆だよ」

「逆?私のこと崇拝してるのか?」

「う、うん。だって」

「嫌だ。遠く感じる」

 急に唇を尖らせたアンダインが今度は足の甲に唇を押し付ける。アルフィーは混乱する頭で必死にそこの意味を思い出そうとしたが、その投稿を見たのは随分前だし、中々思い出せない。アンダインのキスはアルフィーの足の脛を通過してベッドに手をついて迫るようにアルフィーを睨むと今度は太腿に落ちてきた。アルフィーが後退りしてベッドに倒れこむと、アルフィーの寝間着をたくし上げて彼女の腰にもキスをする。くすぐったさに身を捩ると、今度は尻にも顔を押し付けられた。

(ああ、思い出した。脛へのキスは服従、でも太腿は支配欲。なんだか、あべこべだ)

「アルフィーは駄目だぞ」

「だ……駄目って?」

「誰の足の指にもキスするな」

「アンダインにも、駄目なの? あ、あなたは私に……するのに?」

「私はただお前が可愛いからしてるだけ。意味なんか無い」

「そ、そっか……」

「でも、意味を持たせるのも、面白いな」

 アルフィーの隣に倒れこみ、アンダインが彼女を腕に閉じ込めた。下半身への攻撃が止んでホッとしたのも束の間、今度は頭部に口づけられて、アルフィーはアンダインの腕の中で身じろぎする。

「そしたら、気持ちをより伝えられる」

 アルフィを抱きしめた腕を緩めて、先ほど自分がキスした腰と尻を指で撫でていった。

「ここは? こことかは?」

「ええ……えっと、なんだったっけ……。腰は、束縛で、お、お、お尻は……」

 少し息を乱しながら一生懸命説明するアルフィーの口から「束縛」と出てきたので、アンダインがぎくりとした。口や態度ではアルフィーを自由にさせたいと言っていても、魂の奥では彼女を束縛したい気持ちは無くは無い。

「案外当たってるな……」

 というアンダインの呟きはアルフィーに届かず、それを良い事に

「いや、迷信だ」

 なんてとぼける。そしてアンダインは自分が思うまま、したいところにアルフィーへ口づけて行った。
 
 
・・・
 
 

「綺麗……」

 結局、その日はそのままベッドで一夜を過ごしてしまい、翌朝アルフィーの爪に色を塗り忘れていたことに思い出したアンダインが、アルフィーの両手両足の爪にベビーブルーの優しいカラーのネイルを施した。角度を変えると小さなラメが光るそれは、空を眺めている時の太陽の光にも似ている。アルフィーがそれをうっとり眺めていると、アンダインが満足そうに

「またシような」

  と色を含んだ言い方でアルフィーの耳元に呟いて彼女を混乱させた。
 
 
 
END