Smell of Love
「お寿司」
「それって、人間が地上の魚を生で食べるやつ?」
「東洋の料理だね」
フリスクが説明した。アルフィーも、名前だけは聞いたことがある料理だ。生臭いが、お酢や塩、砂糖で調味されたライスの上に捌いた魚を乗せて食べるそれは東洋では高級料理とされ、匂いに癖はあるものの相当美味らしい。肉や魚を食べないモンスターからしたら、少し敬遠してしまう。
「アンダインから匂ったの?」
「最初、追いかけられた時。生臭い感じ。酢飯の匂いがしたら完璧に寿司だったな」
アンダインは魚のモンスターだから、仮に魚の生臭さを感じてもおかしくはない。アルフィーはフリスクのそんな感想が興味深く面白かった。
「でも、それっきりだよ。普通に会う分には匂わない」
アルフィーの自室の本棚にあった人間のグルメ雑誌を戻しながらフリスクが笑う。
「私も匂う? モンスターと人間って違うのかな」
「アルフィーは、う~ん、強い匂いはしないな」
言いながら、フリスクはアルフィーに顔を近づけてすんと匂いを嗅いだ。
「爬虫類ってこういう匂いなのかな。あ、臭くはないよ」
「良かった」
アルフィーがほっと微笑むと、ドアの先からアンダインが顔を覗かせた。
「おい、何をしている」
フリスクが、思わずアルフィーから体を離した。やましいことは何もしていないが、アンダインの手前アルフィーに近付き過ぎるのは憚られる。アンダインがフリスクに悪意を向けないことは解っているが、フリスクは彼女の嫉妬深さも知っていた。実際、アンダインは顔を寄せ会う番と親友にキツめに声をかけてしまったのに自分でも気付く。
「茶が入ったぞ」
魚人は咳払いをして、調子を戻すと笑った。彼女がリビングへ戻るのを見届けて、二人もそれに続いて部屋を出る。
「そう言えば……」
「ん?」
「生臭い匂い、するかも。アンダインが怒ったとき」
「あー……」
アルフィーがフリスクに耳打ちした。フリスクは追われていた時のアンダインの怒り具合を思い出していた。アルフィーも、アンダインが不機嫌になる場面に度々遭遇するし、なんなら自分が原因で怒らせることもあるが、そんな時に不穏な香りが漂っていたのを記憶している。
感情によって体臭が変化するのは不思議なことではない。人間も体調が変化すれば体臭が変わったりするものだ。
ソファの前のテーブルには3人分のティーカップが置かれていた。フリスクとアルフィーはソファに腰かけて、カップを持つ。アンダインが淹れてくれたお茶は相変わらず煮たっており、フリスクはそれに息を吹きかけて覚めるのを待った。
「なんの話をしてたんだ」
「え!」
「ふふ」
慌てるアルフィーを他所にフリスクが笑って紅茶に口をつけた。まだ熱かった。
「あー……えっと……あ、そう、こ、香水」
ね?とアルフィーはフリスクに目配せをする。匂いの話をしていたから、あながち嘘でもないが、本当でもないのでフリスクはほくそえむ。
「付けているのか? だから嗅ぎ合ってたんだな」
「あー……いや、もう飛んじゃったみたい。アンダインは、香水持ってる?」
アンダインは首を振りながら、ソファの肘掛けに腰をおろした。煮立った紅茶に平気で口をつける魚人の口内を不思議に思う。
「欲しいのか? アルフィーが付けけたいなら、付けても良いけど」
アンダインがアルフィーの首筋に顔を持っていき、匂いを嗅いだ。
「私はお前のそのままの匂いが好きだ」
「あらら」
惚気てくれる。見せつけられたフリスクは、それでも仲睦まじい友人らのやり取りを微笑ましく眺めた。アルフィーがフリスクに苦笑いを返す。
「アルフィーってどんな匂いがするの? モンスターの方が鼻が利くのかな」
「モンスターによるな。ロイヤルガードは犬が多いんで皆鼻が利く。私はそうでもない」
アンダインはアルフィーから離れると、自分の低い鼻を撫でた。
「アルフィーは、暖かい匂いがする。夜明けの太陽みたいな。ああ、でも、少し甘くも感じる」
「そ、そう?」
アルフィーは自分の手の甲を鼻に押し付けたが、自分の匂いだからか何も嗅ぎ取ることはできなかった。
「もしかしたら、番同士にしかわからない匂いがあるのかもね」
フリスクが人差し指で自身の顎をつつく。アンダインはニヤリと笑ってアルフィーの背中からフリスクに手を伸ばした。
「よしよし、フリスクの匂いも嗅いでやる。こっちに来い」
「わっ」
「きゃあ!」
アンダインがアルフィー越しにフリスクを抱き寄せ、ソファに二人を押し倒しながら倒れ込んで番と友の間に顔を埋めた。二人はアンダインの腕の中でくすぐったげに笑った。
◇◇◇
「本当に、欲しいモノは無いのか」
「なんのこと?」
フリスクを家に送り届けたアンダインが帰宅早々アルフィーに言った。コートかけにブルゾンを乱雑にかける。
「香水」
「ううん。別にね、何にもないの。フリスクと香りの話をしてただけ」
「香りねえ」と呟きながら、アンダインがアルフィーを抱き上げて首筋に鼻を押し付けた。
「ちょっと、ねえ。ま、まだ、お風呂入ってないの」
「別に臭くないし。あ」
「な、なに?」
「ふふ」
アンダインはアルフィーの首や肩に頬ずりしながら笑っている。
「フリスクには教えなかったけど」
「なに……を?」
「アルフィーは抱き締めると甘い匂いが強くなる。あの子の言う通り、そう感じるのは私だけかもしれんが」
「な、な、な、なにそれ……」
「土みたいな……いや、花かな、甘い匂いがする。上手く言葉にできないな」
アンダインはそれを上手く説明できなかったが、アルフィーの匂いの中に垢抜けない優しい暖かさと、無垢なはずの印象の中に肉感的な甘さを感じていた。それはあからさまにセクシーな香りより一層官能的な印象をアンダインが嗅ぎ取る度に与えていた。
「興奮する」
一言で言ってしまえばこういうことだ。
アンダインから自分の匂いについてあれこれ詳細に説明され、どう返答したらいいかわからないアルフィーは照れ臭くなって口をもごもご動かすだけで黙ってしまった。アルフィーの戸惑う様子が見ていなくてもわかってしまうアンダインはそんな彼女が可愛いのでつい意味深な声音を耳元で吐いてしまう。自分でも悪い癖なのは分かっているが、アルフィーはそれでアンダインを咎めはしないので、なかなか止められない。
アルフィーがさらに真っ赤になったので、アンダインは笑いながら彼女を解放した。
「なんてな」
「も……も……もぉ……ッ」
「好きな匂いだぞ」
アンダインはこうやって困ったように照れるアルフィーを見るのが好きだった。自分がしたこと一つ一つに愛らしい反応を返してくれる大事な番に、実は夢中なのはアンダインの方なのだ。
注意してこっそり匂いを嗅ぐと、アルフィーからまた微かに甘い香りが漂ってきた。もしかして、今まで自分はこうやって無意識に彼女の匂いから気分や状態を感じ取っていたのかもしれない。
「ごめん、嫌な気持ちにさせた? でも、アルフィーの甘い匂いでドキドキするのは本当」
「い、嫌じゃないよ……」
アルフィーの機嫌が悪くないことを言葉でも確認し、アンダインは黄色い額を撫でて牙を見せて笑うとリビングを出ていった。
廊下の先でバスルームのドアが閉じる音がすると、アルフィーはホッと一息付く。アンダインと生活して何年目かになるが、彼女は毎日こっちのソウルを悪気無く跳ねさせる。自分もいい加減慣れれば良いものを、中々そうもいかず、毎回解っていながらも同じ手順で不意を突かれてしまう。
「あ……」
壁にかかったアンダインのカーキのブルゾン。それに手を伸ばして、彼女が袖を通した内側に顔を埋めた。アルフィーがいつも感じるような、深海の濃厚な香りではなく、まだ太陽の光が穏やかに届く海、そんな匂いがする。
思考の中で甘やかに微睡んでいると、廊下からドスドスと足音が聞こえて、ハッとした。
「ねえ、シャンプーのストックさあ」
「きゃわああああっ!!」
アンダインが腰にバスタオルを巻いた状態でリビングに入ってきた。その姿にも驚いたが、自分の状況も説明出来ないアルフィーは飛び上がって声をあげる。
慌てた様子で自分のアウターを握りしめたアルフィーの状況が理解できず、アンダインはアルフィーに駆け寄った。
「どうした!」
それはこっちのセリフだ。アルフィーは目前に迫る露になった番の上半身に気を動転させながらせめて自身が倒れないようアウターを握りしめて踏ん張った。取り繕った笑顔はおそらく相手には滑稽に見えている事だろうが仕方ない。
「あ、あ、あああストック?! せ、洗面台の下に無かった?」
言われ、アンダインは頭を掻いてアルフィーに気まずそうに笑った。
「私が上の棚に移したんだった」
ごめん、と言いながらアンダインが再度バスルームへ戻っていく。それを見送りながら、アルフィーはソウルの鼓動する音を聴いてしばらく放心して立ち尽くしていた。相手に自分の恥ずかしい行為をどう見られたか気になって仕方がない。以前からアンダインに隠れて彼女の使用する寝具や衣服の匂いをこっそり楽しんでいたなどと、知られたらどう思われるか……。
「大丈夫だよね」
一人で乾いた笑いを空しく溢しながら、アルフィーはアンダインのブルゾンを壁掛けに戻す。
アンダインが石鹸の匂いをさせて部屋着で戻ると、アルフィーが入れ替わりに風呂場へ入った。アンダインの服が洗濯機に投げ入れられているのを見つけると、アルフィーは廊下にアンダインの気配がないことを確認してそれに手を伸ばす。そして鼻にそっと押し当てた。
「あれ……?」
少しだけ、生臭さが鼻についた。昼間のフリスクとの会話が脳裏を過る。
(怒ってる……!?)
アルフィーは慌てた。自分が懸念した通り、変態的な行為が彼女に知られて、怒らせてしまったのではないか。そう推測して顔から熱が引いていく。
不安な気持ちを引き摺りながらシャワーを浴び、その間に悪い憶測がアルフィーの脳裏を幾つも過った。バスルームを出るころにはアルフィーの気持ちは沈みきっており、寝室へ入った彼女の顔色が悪いのでアンダインが心配して黄色い頬を撫でた。それでもアルフィーの心配は消えず
「怒った?」
と不躾に聞いてしまい、それにいぶかしむアンダインから理由を問われると
「アンダインの脱いだ服が少し生臭くて」
そううっかり正直に話してしまったのだ。言ってから数秒後、アルフィーは慌てて口を閉じた。
「もしかして、脱衣所で臭ってたか?」
「ちちち違うの!私が勝手に嗅いだの……あっ!」
失言に失言を重ね自分で自分を追い詰めていくアルフィー。だがアンダインには「匂い」と「怒り」の関係性が分からず、アルフィーが意味の伴わない声でうなっている理由も把握できなかった。
「落ち着け」
「うう、ごめんなさい……怒らないで……」
「服を嗅いだぐらいで怒ったりしない」
アルフィーにベッドへ腰かけるよう促し座らせると、多少落ち着いたのか眼鏡の奥の青い瞳が体裁の悪い様子でアンダインを見上げた。
「……ア……アンダインの機嫌が悪い時にね、その……独特な匂いがするの。それが、洗濯機のシャツから、ちょっと感じて」
「シャツ……昨日仕事で着たやつか」
「へ?」
アルフィーは昨晩のことを思い出していた。アンダインが帰宅早々腹立たし気に話してくれたことだ。アズゴア王の護衛中、ひったくりを一人捕まえたらしかった。「自分より弱いものを害して物を盗むとは何事だ」と吐き捨てたアンダインが、当時着ていたシャツがあれだった。そのときの怒りがシャツに微かに残っていたということか。アルフィーは納得した。
「自分じゃ気付かないな」
自身の体臭の変化など中々本人は気付かないものだ。アンダインは自分の髪を一房掴み、鼻に押し当てた。シャンプーの香りすら、慣れた鼻には解りづらい。
「お前に不快な臭いじゃなければいいが」
それにアルフィーは首を振った。
「アンダインはね、深い海の底……みたいな……」
「行ったこと無いけどね」と照れ笑いしながらアルフィーは自分の頬を撫でた。
アンダインに抱きしめられるたびに感じる香り。苛烈な彼女の性質に眠る、エネルギッシュな爽快さ清々しさ、それなのにどこか熱と色っぽさを伴うノスタルジックなそれを感じるたびにソウルが震える。傍に感じたいときはその香りを求めてアンダインの私物を嗅いでしまう。
「私も、アンダインの匂い、好きだよ」
「良かった。時々アルフィーが私の服やら枕を嗅いでるのは、臭いからじゃなかったんだな」
「へ…………?」
高いアルフィーのダミ声が一層高く喉から吐かれた。目をぱちくりさせている番にアンダインの方がキョトンと視線を返す。
「浮気でもチェックしてたのかなと。まあ、いくら嗅いでも他の雌の匂いなんかしないと思うぞ」
「いや別にそういうつもりじゃ……じゃなくてっ! え、ええ! しししし知ってたのぉ?!」
「隠してたのか?」
そこまで言われると情けなさの方が強くなりそうだ。アルフィーは歪んだ笑顔で他意の無さそうなアンダインの顔を凝視すると、がっくりと肩を落とした。
「……恥ずかしいことしてごめん」
「別に恥ずかしくないだろ。でも、理由が知りたい。不安にさせてるのか?」
「ううん、浮気を疑ってたわけじゃないの。ただ、わ、私……」
アルフィーの頬に熱がこもり、頬が染まると本当に小さな声で
「アンダインの匂いがすると、傍に居る気がして……。そ、それだけ……」
と本音を呟いた。俯いたままのアルフィーには、赤くなったアンダインの顔色の変化に気付かなかった。
「そんな顔するな。私も同じだ」
「え……だ、だって、ア、アンダインはそんなことしないし」
「そりゃあ、アルフィーを直接抱きしめたら良いものを、お前が居る時にわざわざ服を嗅いだりしない」
アンダインがアルフィーの隣に腰かけて、アルフィーをベッドに押し倒しながら彼女の婀娜な胸に顔を押し付けた。そして思い切りその匂いを吸い込むと、アルフィーが小さく声を上げた。
「甘い」
アルフィーの甘い香りが強くなる。彼女を嗅げば嗅ぐほど、匂いどころか、声も甘ければ肌も甘い気がしてしまう。自分を求めて服を抱きしめているアルフィーのいじらしい行動や彼女が放つ言葉のどれもこれもアンダインには甘くて、媚薬のようにソウルを痺れさせた。
「お前にこの気持ち、わかるか」
ひとしきり番の胸で呼吸をしながら甘さを堪能するアンダインの声が熱に浮かれているのに気付かないアルフィーは戸惑いの声を漏らしたきり。アンダインの髪や項を愛し気に撫でる。
「残り香なんかじゃ我慢できない」
アンダインの甘えきった声に、アルフィーは少しの確信を持って彼女の頭をそっと掻き抱いた。アルフィーはいつも求めている噎せ返るほどの深海の香りを感じ取り、目眩を覚える。これは何かの魔法だろうか。
「可愛いアルフィー。そんなに私が恋しいなら、直接おいで」
アルフィーが夢見心地に頷くと、二人はお互いの香りに溺れてベッドに沈んでいった。